説教題 「荒野で呼ばわれる声がする」

聖句 新約聖書 ルカによる福音書第3章3節~

彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。
それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。
すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、
人はみな神の救を見るであろう」。
さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。
だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。
そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。
彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。
取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。
彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。
兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。



罪とは、悔い改めとは。という説教でした。

罪の語源とは「的外れ」から来るものです。

私たちは普通に生活するならば、特に悪いことを犯すわけでもなく、自分が罪人だとは到底思えないでしょう。

H牧師は塩狩峠の主人公が基督教の信仰を持つくだりで分かりやすく説いてくださいました。

聖書のたった一つのみ言葉も全う出来ない弱い自分。そこに気付き、そんな自分をも救いに来てくださった神様とイエス様を知ったところに主人公の信仰の始まりがありました。

悔い改めのポイント3点、仰っていました。

・神の目線で見る

・神の方向へ転換

・キリストの愛を受け入れる


自分は駄目なんだ~というところに留まらず、そういう自分さえも愛して赦してくださる神様とイエス様がいること。

その時点では与えられた環境が辛くとも、文先生の「振り返れば愛だった。」というみ言葉の如く、
あなたの愛の中にいること、いま自体を感謝して生きたいと感じさせられた礼拝でした。


恵みをありがとうございます。



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