荒川教会・荒川支部合同礼拝

礼拝のみ言

相続者

誰が幸福でなければならないかと尋ねれば、「私が幸福でなければならない」という答えがすぐに出てきます。
「誰かって誰だ。私が幸福でないと・・・・・」と、このように答えるというのです。ここで、幸福であるための先有(前提)条件とは何でしょうか。それは、私が幸福でなければならないというとき、幸福であろうとするするなら幸福でありうる内外を準備しなければ、幸福が存在しても手にすることができません。
幸福は、自然に来るのではありません。受ける事の出来る準備が出来ていてこそ来るのです。
そうするには、どのようにしなければならないでしょうか。

幸福の主体である方がいれば、その方の心に合う私にならなければなりません。それゆえ幸福の主体が神様ならば、神様が好むことのできる私、神様が魅力的に感じる人にならなければなりません。そのようになれば、「おお!私が幸福でなければ」という話が成立しうるのです。皆さんは自身が幸福でなければならないというとき、幸福でありうるそういう内外の内容を備えているのか、これが問題です。

1975年8月3日
アメリカ
『文鮮明先生み言選集第七十九巻』より


何ヶ月かぶりの、教会と支部の合同礼拝でした。

普段、荒川支部は、20代30代の青年たちがつどっています。
そして、荒川教会は主に家庭を持たれた方がつどっています。


プレゼンテーションの前のアトラクションでは、普段見る事の出来ないプロのマジックを拝見し、とても私の印象に残りました。
荒川教会はすぐ近くにあるのに、こんなにすごいマジシャンの方がいるなんて知らなかった!と驚きました。その方は誰かと荒川教会の方に聞いてみるならば、
その方は今までに文先生ご夫妻や亨進世界会長の前で数回マジックを披露したことがあるという、凄い方だったのです。

そのようなアトラクションを経ながら、支部、教会ともに日々の活動のプレゼンテーションを行いました。

荒川教会の伝道の証は刺激的でした。
合同礼拝の場は、お互いに恩恵交換することができてとても恵みに感じました。

そして、教会長もみことばを語ってくださいました。
内容は、この記事の最初の「相続者」に関するみ言葉。

わたくし、ぼーるぺんは礼拝に出掛ける前にひとり瞑想をしていました。初めて瞑想で、神様の心情を感じられた経験をしたのですが、その感じた内容がそのみ言葉とリンクしていたので、びっくりしましたし、神様は私にやっぱりこの事を伝えたいんだ!と確信しました。

そのような感覚を持ち、最後に歌う『み旨応援歌』は文先生ご夫妻を思ってたくさん涙が出ました。


神様は私に、真の愛を相続させようと信じているんだ・・・。


とても、恵み多い礼拝でした。

ありがとうございます。
感謝しています。


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