説教題 「侍る生活」

聖句 新約聖書 ヤコブからの手紙第1章21節~27節

だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。
御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。
そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。
もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。
父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。




H牧師が先週の宋総会長の礼拝を受けたときに、今回の説教題「侍る生活」というキーワードが特に心に響いたそうです。

そして、荒川青年支部がこの2011年をスタートするに当たり、ふさわしい聖句はなんだろうかと祈ったときに、今回の礼拝の聖句を与えられたという事です。


「侍る」という言葉は、日本では一般的に「仕える」とか「従事する」という言葉に置き換えられやすいのではないでしょうか。

イメージとして例えばお殿様が「ははーーっ」と下々の者たちを従わせている姿を想像しやすいのでしょう。

しかし、ここで言う「侍る」というその言葉の真髄は、一言でいうならば「共に生活すること」だと言われていました。


私たち統一協会の信者は再臨主として文鮮明先生ご夫妻(真の御父母様)に侍って生活していこうとしていますが、当然ながら生活を共にすることは出来ません。では、どうやって侍っていけば良いのでしょうか。


H牧師はマザーテレサのことを語ってくださいました。

マザーテレサが病気の人や貧しい人を癒そうとしたのは、福祉活動や慈善事業をする為にやったのではなく、「ただキリストのためにやっているだけです。」と言われたのだそうです。

マザーテレサは貧しく死に行く姿の人を通して、「私は渇く」と言い、愛に飢え渇きながら十字架についたイエスの生涯をそこに見ていたのではないでしょうか。


目の前の傷付いた人の背後に、イエス・キリストを感じ、心を込めて愛する。


そんな風に、目の前の人の本心を見て生活していくこと。
私が、神様の働く本心に従って生活していくこと。


それが真の御父母様に侍る生活のヒントになるという事を感じました。


そして、今日の礼拝の最後、聖歌16番「復帰の心情」を歌ったとき、7年前の初めて礼拝に参加した時にその聖歌を賛美し感動で心満たされた事を思い出しました。
7年経っても、神様が変わらず私を見守っていてくださること。分からないながらも幼子のように神様に求めていた頃を振り返り、涙しました。


今回の聖句を胸に、神様に侍り一年を出発していきたいと思います。


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