説教題 「背負われる神」

聖句 旧約聖書 イザヤ書第46章3節~4節

「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。



私は、信仰の道に来て1,2年たった時、「罪観とは何だろう」と思っていました。

人生に悩んでいたわけでもなく、人生どこに向かっていくべきかという漠然としたもやもやを気づかせてくれ、その問いに明確に答えを与えてくれたのが、統一原理との出会いだったのですが、
罪の悔い改めるということや、私の罪ゆえにイエス様が十字架につかれたのだという思いは、ここ何年かで感じ始めたことでした。


そもそも、現代の日本人は、なかなか「罪」という意識はないように思います。おおかた、良い人ですし。

だからといって、罪観を知るために自分自身の堕落性ばかりに目を向けたり、また、他の人から堕落性を指摘されれば罪を自覚するというものではありません。


H牧師が森山操先生の幼少期の話をしてくださいました。
母親との関係の中で、自らの罪を悔い改め、もう二度と母親を悲しませるようなことはしない。という事を幼心ながらに決意したという話です。


人は、自らの罪を私以上に悲しみ、自責の念に駆られる方、例えば親なる方の姿を見るときに、もう二度と同じ過ちを繰り返さないと決意できるのです。

そう、自らの罪ゆえに十字架に磔にされたイエス様の愛に触れた時、人は真に悔い改め、新しく生まれ変わることが出来るのです。

神様の愛は永遠、不変です。

言葉で言うのはとても簡単だけれど、人間に裏切られたり、無視されたりしても、それでも人間を愛し背負われる神様。

真に主を知った者は、「罪を絶って、あなたの願う本心に行きます。」と言えるのです。

いつも、礼拝の中で、神様の愛と私の中に呼応する本心に気付く幸いを与えられています。



感謝と感動をもって、生活していきたいと思います。

ありがとうございます。



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