説教題 「心」

聖句 

原理講論P.29 7~13行目

ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知ることによって信仰を立てるためであり、イエスが様々の奇跡を行われたというのも、彼がメシヤであることを知らせて、信じさせるためであった。ここにおいて、知るということは、すなわち、認識するということを意味するのであるが、人間は、あくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、すなわち科学的なものでなければ、真に認識するということはできないので、結局、宗教も科学的なものでない限り、よく知ってそれから信ずるということが不可能となり、宗教の目的を達成することはできないという結論に到達するのである。このように、内的真理にも論証的な解明が必要となり、宗教は長い歴史の期間を通じて、それ自体が科学的に解明できる時代を追求してきたのである。

P36 8~17行目

堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。また、無知と無情緒からはいかなる意志も生ずることはできないのである。人間において、知情意がその役割を果たすことができなくなれば、そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない。人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。それゆえ、この新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。


今回の礼拝は、原理講師KS先生の説教でした。
KS講師の原理講義はとってもわかりやすい!そして、とても面白い!
日ごろKS先生の近くで歩む私は、なかなかに難解な統一原理をこれほどまでにわかりやすいKS先生の原理講義は、或る意味「発明」だととさえ思っているものであります。

そんなKS講師の今回の「心」という説教。

いかに私達が日々を神様とともに喜びを感じて生活していけるだろうか。というヒントを与えて下さいました。

今回の聖句は原理講論からで、この記事に掲載しましたが長くて読むのが大変かもしれません。

私達人間の心はとても変わりやすく、与えられる環境によって一喜一憂するものです。
しかし、同じものを見たり聞いたりしても、感じることはひとりひとり違います。

そして、変わりやすい人間の心に対して、神様の心は変わりません。神様の作った原理原則も変わりません。

いかに神様の心に共鳴できる私自身の心になるか。
目の前の事だけにとらわれず、その背後にどのような神様の心情と事情があるのか。

真理と神霊でもって、日々成長をしていきたいと思いました。




今日は長文、読んでくださってありがとうございます!

皆様に神様の御恵みがありますよう。

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