皆様お久しぶりです!
お元気でしたか??
さてさて。
私の父は私が小学生の時に亡くなった。
病死で。
家族・親戚が病院のベッドの周りを取り囲む中静かに亡くなった。
50歳で。
当時の私にはよくわからなかったけど、今になって本当に、本当に若くして亡くなったと思う。
子どもをおいて死ななければいけない気持ちを考えると、いろいろな感情があっただろうな、と 胸が張り裂けそうになる。
そして父が亡くなった後、エホ証が原因で父方の祖父母・親戚とは絶縁状態となり、父の遺骨は父方の祖父が生前から建てていたお墓に入る事になった。
遺骨の行方で揉めていた母と父方の祖父母・親戚とのやりとりを見ていて、子どもでありエホ証として育てられていた私は当時、“骨なんか欲しければあげたら?”くらいに思っていた。
父と沢山の思い出があるし、死んだら無意識・無存在なんだから、どーでもいい、と本気で思っていた。
だから、近くの墓地だ、という事はなんとなく知っていたけど、何処の墓地なのかはおろか、墓地の中のどこにお墓があるのかなんて知らなかった。
時々お父さんはお爺ちゃん達のお墓に入ってるんだよな…と思い出しても何処だろう?とまでは考えることはなかった。
だけど、エホ証から離れてみて色んなことを客観的に、冷静に見られるようになってきていた時に、Aさん(久々の登場〜笑。まだAさんとはつながってます)から、「カレブのお父さんのお墓参りに行こう!」と言われました。
言われた時は、へ?ほ?は???って感じだった私。苦笑
今更何?なんで?って。
でも離れてみて父の事を思い出す事が多くなっていた私は少しお墓の事も気になってはいました。
だからさりげなく、話の流れで母に父のお墓の事を質問したら市内の墓地である事が判明。
でもね。
お墓の場所がわかっても、お墓参りの仕方がわからない私。
Aさんに「お墓参りの仕方がわからないから一緒に行って」とお願いすると、そのつもりでいてくれていたAさん。
それでこないだのお彼岸に人生初のお墓参りに行ってきました。
墓地はひろーーーーいところで、自分たちでお墓を探すことなんて到底不可能な広さ。
事務局寄ってお墓の場所を教えてもらい、お花やお線香を買ってお墓へ向かいました。
初めて見る父方のお墓。
新しいお花が供えられており、つい数日前の日付で卒塔婆が置かれていた。
お花をお供えしたくても花立てに綺麗なお花がいっぱいで入らないくらい。。
墓誌には祖父母の名前、そして父の名前が彫られてあった。
その墓誌にある父の名前、年齢を見た時、自分でも驚くほど涙が溢れてきた。
そして涙が止まらない。
ポロポロポロポロ泣いて、落ち着いたから、とまた墓誌を見るとまた涙がポロポロ止まらなくて。
そして手を合わせても涙がポロポロ止まらない。
結局帰るまで泣きっぱなしだった私。
みんなから亡くなった後も大切にされていることがわかるお墓の状態、父がいい戒名をつけてもらった事(Aさんが戒名のランク?の話も教えてくれました)、何でお父さんはそんなに早く死んじゃったの?、今生きていたら私にどんなアドバイスをくれるの?お父さん、、会いたいよ、、、
そんな気持ちがグルグルして涙が止まらなかった。
このブログを書きながらも涙が溢れてくる。
でも、お墓に行けて良かったと思う。
父と静かにゆっくり向き合えた気がした。
父の近くに居られる気がした。
父に話しかけられた気がした。
やっぱり意識があろうがなかろうが、父を構成していた骨を大事にする事が悪い事ではないと思った。
父を大切に思って何が悪い?
死んでしまったかもしれないけど、骨になってしまったかもしれないけど、会いに行って何が悪い?
会いに行って悲しくなって涙を流して何が悪い?
“将来再会できる”という、希望があるとしたとしても、今会えずに寂しいのに寂しがっちゃいけないってどゆこと?
意味がわからない。
お墓参りに行って予想外の自分の反応を通してそんな事を思った。
やっぱり、エホ証から距離を置いて見てみるとおかしいな、と気付く事が多いと思う。
私はお墓参りに行けてよかった。