今回は、倉敷市【熊野神社(くまのじんじゃ)】のご紹介です![]()
御朱印はこちらです![]()
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以前お受けした書き置きの御朱印になります![]()
※授与所がご不在の際も、境内には無人御守り売場が
ありますのでお受け出来ます。
【熊野神社】 「日本第一熊野十二社権現宮」と称する。
岡山県倉敷市林684に鎮座します![]()
御祭神
主祭神
伊邪那美命(いざなみのみこと)
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
速玉男命・事解男命・天照大神・忍穂耳命
瓊々杵命・彦火々出見命・葺不合命・稚産霊命
埴山比賣命・罔象女命・軻遇突智命
御神徳
病気平癒・厄除け・交通安全・家内安全など
御由緒
天平十二年(740)、聖武天皇は児島一円を本宮の御神領として寄進しました。
現在地に社殿を建立したのが始まりです。
孝謙天皇紀(749-758)には、紀州熊野権現に対して日本第一の称が与えられ、
当社もその号を称することになりました。
承久の乱(1221年)に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流され、その第四皇子で、
鎌倉幕府第四将軍になる候補であった冷泉宮頼仁親王は、この地に配流されました。
また、弟の桜井宮覚仁親王は乱を恐れ、この地に赴任し尊瀧院の住職となりました。
公卿山伏といわれる由縁です。
応仁の乱(1469)で開幕となった戦国時代の兵火のため、
社殿をことごとく焼失してしまいました。
明応元年(1492年)、社殿は天誉長老により再建されました。
国の重要文化財に指定されている第二殿が、その時建立されたものだと
いわれています。 以後、復興を見ますが、次第に社領は減少し、
中国管領大内義興、毛利家父子の守護を受けましたが、
児島一円の領地はわずか三ヵ村に減ってしまいます。
西暦1600年代半ば、池田光政公により、吉備津彦神社の大守家から神官が赴任され、
祭祀を専らにさせるなど、あつい保護の下に明治に至りました。
慶応四年三月(1868)、神仏分離(神仏判然令)により、
現在は、宗教法人熊野神社、宗教法人修験道五流尊瀧院と呼ばれています。
※神社資料より抜粋
ここからは写真と一緒にご紹介を![]()
注連柱から![]()
『手水舎』![]()
お清めします![]()
『三重塔』![]()
右手に見え、「五流尊瀧院」とあります![]()
桜の花と美しいです![]()
進むと『拝殿・社務所』が見えてきます![]()
『拝殿』![]()
参拝させていただきました![]()
授与所との間を進んで行きます![]()
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『狛犬さま』![]()
備前焼狛犬さまでしょうか
特徴的なお顔立ちです![]()
奥には、御社殿「第一殿から第六殿」まで横に並んでいました![]()
「第一殿」
「第二殿」![]()
「第三殿」![]()
「第四殿」
「第五殿」
「第六殿」![]()
上の御社殿が「第一殿・第二殿」を挟んで並びます![]()
奥には『八尾羅宮(はっぴらぐう)』が鎮座します![]()
「お社」![]()
参拝させていただきました![]()
八尾羅宮には御朱印があります![]()
神社まわりを拝見します![]()
『梵鐘』![]()
神社入口の向かいには 『熊野大権現御本地』![]()
上がって行きます![]()
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放生池のそばに「後鳥羽上皇宝塔」とあり![]()
向かってみると![]()
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奥に『宝塔』があり![]()
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「後鳥羽上皇御影塔」とご説明がありました![]()
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暫し拝見させていただき帰路へ![]()
神仏分離の歴史が残る、倉敷市【熊野神社】
重要文化財の御社殿や三重塔など、多くの見どころがあります![]()
また是非参拝させていただきたいと思います![]()
ご覧いただきありがとうございました![]()
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