平和について考える | 紫苑の徒然日記

紫苑の徒然日記

育児を中心に、日頃感じることを気ままに。

娘の保育園では、例年、終戦記念日にあたる8月15日に、年長クラスの親子が集まって、平和について考えるというイベント(?)を行います。

もっとも、新型コロナの影響で、昨年も今年も、親子で集まることはできません。

それでも、子ども達が平和について考える機会はなくさず、家庭での宿題にするなどして、やれる範囲でやります。


今年は、普通の折紙(15cm四方)より2回りくらい大きな折り紙で鶴を作り、その羽に平和への願いを書こう、というものでした。

折り紙は娘の得意分野なので、私が家事をしている間に、あっという間に作り終えていました。

ところが、問題はそのあと。「平和」とは何か、がよく分からないようなのです。

目に見えるものならまだしも、こんな概念的なものを子どもに分かるように説明するなんて、私の脳ミソではとうてい不可能です。


そこで、例え話をしました。

「戦争になると、娘のお父さんやお友だちのお父さん、お兄さんやおじいさんまで、男の人はみんな遠くに行ってしまうんだよ」

「連れていかれたお父さん達は、帰ってこれるか分からないんだよ」

「今はエアコンがあるけど、戦争になったら使えなくなるかも」

「ごはんだって、好きなものはもちろん、嫌いな物だって食べられなくなるかも」

「飛行機で爆弾が落とされたら、住んでるおうちも壊れてしまうかも」

「日本は、今は平和だよ。でも、うんと遠くには、今話したような生活をしている子達がたくさんいるよ」


ちょっとリアルに伝えすぎたのか、娘をガチ泣きさせてしまいました。

やりすぎたかなぁとも思いましたが、感じた思いは心に刻んでほしいと思ったので、訂正はしませんでした。


私の学生時代にも、祖父母などから戦争の話を聞くという宿題が出ました。

でも、祖父母はまだ学生だったし、とにかく田舎なので、疎開がどうとか食糧難がどうとか、そういう熾烈な話は出ませんでした。

だから、私自身、戦争は想像することしかできません。

でも、ちょっと想像しただけでも、こんなことは起こってほしくないということは容易に分かります。

災害支援で身内が被災地に行かなければならないかもしれない、というだけでも身がすくみます。


戦争のリアルを語れる人は、確実に少なくなっています。

でも、語り継がれてきたあれこれに触れることはできます。

終戦記念日に、今ある平和に思いを馳せ、そのありがたみを感じたいと思います。