シューベルトの「魔王」を、生で聴く機会に恵まれました。

 「『日本で1番有名だ』と思うクラシック音楽の曲は?」というアンケートや統計は見たことがないですが、「魔王」は、中学校の教科書にも載ってるし、そんなランキングがあったら、かなり上位に入るように思います。

 しかし、中学生、、なんていう年代は、、、国語でならう作家の顔写真や、社会で出てくる歴史上の人物の顔に落書きしたり、、地図上の「おかしな響きの地名」とか、、に、逐一反応して揚げ足取ったり、何もかも、まともに受け取れないお年頃なのに、よりによって音楽の時間に「魔王」を聴かせよう、と思うとは。。。決めたのは文科省のお役人なのか、どんな大人だったのかはわからないけれど、わたしが中学校で初めてこの曲を聴いたときも、例によって、クラスはかなりざわめいていました。わたしは、自分が授業で聴くことになるちょっと前に、他のクラスの子から、「音楽の時間に『魔王』って曲を聴かされて変な気持ちになった、『お父さん、お父さん!』って叫ぶところが出てくるんだけど、そこでクラスみんなが爆笑してて、、怖いんだけど、なんか笑える、でもやっぱり怖い曲で2度と聴きたくない。」みたいなエピソードを聴いてから、聴くことになりました。
 そのときの音楽の先生は、ドイツ語バージョンと日本語バージョン、それぞれ、男性歌手と女性歌手の、4つのバージョンを順番に聴かせてくれました。このときはやっぱり、父の腕に抱かれた男の子の「つんざく叫び声」ばかりが耳について、わたしにとっても、「これのどこがいい曲なんだ?」という感じでした。

 しかしこの度、生演奏でこれを何十年ぶりかに耳にし、これほどまでに劇的で心を鷲掴みにされる曲だったことに、改めて気づかされ、、以来、帰宅してからもくりかえし無限ループのように聴き続けています。

 考えてみたら、ゲーテ作詞、シューベルト作曲って、こんなビッグネーム同士の組み合わせの曲は、、ちょっとほかに思いつかないですね。ジョン・レノン&ポール・マッカートニー、松本隆&筒美京平レベルでも100年に2組〜3組かな?と思うのに、、人類がこの先、何百年存続するかわからないけれど、「ゲーテ&シューベルト」みたいなレベルのコラボ作品は、金輪際出てこないのでは?と思われます。

 この曲は、語り手、父親、坊や、魔王、の4役を、講談や落語みたいに、一人の歌手が歌い分けています。登場人物はみんな違う方向を向いていて、それぞれが別な景色を見ているのに、たった1人で四つの異なるキャラと眺めを見事に歌い分けてるところに改めて感服しました。また、むかし聴いたときはわからなかった、魔王が出てくる箇所の傑出した表現、素晴らしさに今回、初めて気づかされました。

 「悪魔」だとか、、「魔王」だとか、、、人間にとって怖くてイーヴルなもの、邪悪なもの、、って、じつは、すっごく「清らか」で、とっても美しい、、いいものとして現れるんですね。。それはわたしが、この世で半世紀も過ごして、こんな年になったからわかったことでもあります。若い頃は、「邪悪なものって、きっと醜いものなんだろう。」と、勘違いしていました。歌曲「魔王」に出てくる魔王はまさに、、いかにも清らかで、親しげで、軽やかで、楽しそうで、それでいてちょっと狂気じみていて、、パッと見には、人から恐れられる対象のようには現れてこない。同じシューベルトに「鱒」って曲がありますけど、「魔王」部分の清らかなメロディは、「鱒」の清流のようなメロディに通じるものがあります。

 聴いているとまるで、、、あのジャニー喜多川氏もこんな風に、「可愛い坊や、こっちへおいで、、これからすごーくいいことがあるよ。。」的な、ものすごくその子にとって、素晴らしい世界を提供してくれるおじさん、であるかのような感じで少年たちに近づいたんじゃないかな、、、と思えてきます。そして、息子というもっとも大切な存在が脅かされているのに、何か、異常事態が起きていることを信じたくない父親、、、。実際、近年のドイツでは、この詞の解釈として、児童虐待説が人気、という言説も目にしました。

 考えてみたら、わたしがほんとに怖いなー、と思うものって、「白昼堂々としたワル」というより、、「笑うせぇるすまん」みたいな、人が困っているときに、最初はさりげなく、そっと助けてくれる存在として近づいてきて、、じつは、後戻りできないような破滅に導く、、的な存在こそが、本気で怖いなー、と思うのです。

 そして、世界中の名だたる歌手たちが、この曲を歌っているわけですけれど、、聴いているわたしに深い感銘を与えてくれる歌手、とは、魔王の単純な「怖さ」や「悪」、ではなく、魔王の清らかさ、自分にすごく素晴らしいものをもたらしてくれそうな雰囲気、、いかにも善なるものとしてヒタヒタと近づいてくる狂気性、、そういう、パッと見にはわからないような、二重底、三重底になってるような精神の不気味さを表現している歌い手のように思います。

 ただ、この曲をたくさんの歌い手の歌で聴いていても、この世に確実に存在する、「この手の怖ろしさ」を心底知っている歌手って、じつはそんなに多くはないんではないか、、、とも思えてきます。

 そんなわたしのお気に入りの魔王の歌い手は、つきなみですけど、フィッシャー=ディースカウ。

 天才の定義って、いろいろありますけど、わたしにとっての天才とは、「自分がまったく経験していないにも関わらず、なぜか、ものごとを知りすぎている、わかりすぎている、なんだったら、それを実際に経験してる人をも、はるかに凌駕して知ってしまっている。」というのがあります。ディースカウが、「悪がどうやって人の生に立ち現れるか、実際の経験から知っていたのか?」は、わかりません。でも、その恐ろしさを「誰よりも激しく、音楽を通じて理解していた」ということが、彼の歌でわかります。
 考えてみたら、シューベルトがこれを作曲したのは18歳だったということですが、ゲーテも、ディースカウも、シューベルトも、やっぱり、この世の悪がどんなふうに私たちに近づいてくるものなのか、、若くしてその本質を知りすぎていた、、ってことにしみじみとします。

 まあ、「見るからに悪そうなもの」、なんて、だれも心惹かれたり、近づいてみたい、なんて思わないですもんね。。信仰心を呼び起こされるような、この世ならぬ美しさで近づいてくるからこそ、私たちは悪にいざなわれるのだ、、と思います。「悪は、見るからに醜いはず。」なんて思ってた子供のころにはわからなかった、こういう作品の良さを、この年になってやっと理解できるようになった、年を重ねるのも悪いことばかりではないのだな、、と生の「魔王」を聴いて思えてきました。