米原万里さんは、ロシア語通訳として活躍した方ですが、、やはり著名になったのは、その劇的に面白い著作の数々を通じてだった、と思います。ノンフィクション、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を読んだとき、、面白おかしく共産圏の国々に暮らす人々の暮らしを描き出すだけでなく、、、、20世紀初頭から、たくさんの人々が夢見た共産主義が一体どんな末路を辿って、プラハの平凡な女の子たちの運命に影響を与えたか、、その光と闇を鮮やかに見せてもらい、、非常に感銘を受けました。政治には非常に疎くて、まったくと言っていいほど暗いわたしでも、、人類が夢を託した共産主義、、あーそれは、死ぬべくして死んだのだな、、、という感慨も抱かされました。。

   米原万里さんの文章は、とにかく博覧強記というか、視野が広くて、通訳ならではのハッとするような言語の諧謔も多用されていて、、、むちゃくちゃに可笑しく、夢中になって読み進めるうちに、これまで私が見たことも聞いたこともない世界を、たくさん知ることができる文章でした。

   そんな稀有な才能に恵まれた米原万里さんでしたが、2001年、卵巣嚢腫を摘出した際、そこに癌が見つかります。。。医師からは、「手術で残りの卵巣や子宮も摘出し、リンパ節も郭清した上で抗がん剤をする」、という、スタンダードな標準治療を勧められます。そこで米原万里さんは、すぐには即決せずセカンドオピニオンを希望、セカンドオピニオンの医師からは、4つの選択肢を示されます。1は、前医と同じ、2は抗がん剤をしてから手術、3は、抗がん剤だけして様子見、4は何もせず様子見、、というもので、「医師としては1を勧めるが、あなたがどれを選んでも、対応する」と言われます。そこで米原万里さんは、前医から転院し、4を選択するのですが、4を選んだ理由として、「手術、抗がん剤のもたらす肉体的な苦痛を何としても避けたいから。」ということでした。この選択をした直後、米原万里さんは、近藤誠医師のクリニックも訪ねて、近藤氏が自分の選択を支持してくれた、ということも書いてあります。

     こうして米原万里さんは、手術、抗がん剤は避けるという選択をしますが、それは癌治療を諦めることではなく、癌を治すべく、それ以外の代替療法について、膨大な量の本を読み、実践していきます。

   手記には、代替療法のメドレー、、といってもおかしくないくらいの、、有名な代替療法の体験談がものすごくたくさん出てきます。玄米食事療法、自己リンパ球活性免疫療法、ハイパーサーミア、数々の健康食品、、安保徹式健康法、、、などなど。。。

   手記を読んでいて、何よりも瞠目するのは、これらの代替療法の数々に対して、米原万里さんは、かなり科学的で、鋭い突っ込みをたくさんいれていることで、決して、施術者や提唱者の言うことを鵜呑みにしたり、盲目的に信じてこれらの療法を実践していたわけではなかったところです。

   しかも、これらの鋭い突っ込みは、単に手記に残していただけではなかったようで、これら代替療法を施す医師たちにも、、直接の突っ込みとして向けられる場面がたびたび出てきます。大抵の医師は、米原万里さんの突っ込みにタジタジになり、「金は返すからもう来るな!!」という展開になる場面が複数回出てきます。。

  興味深いのは、米原万里さんのいろんな療法に対する数々の突っ込みは、どちらかというと、標準治療を是とし、代替療法を批判するような医師たちの考え方に近くて、このような考え方を持っていながら、標準治療を避けて、代替療法を選ぶ場合もあるのだ、、と読んでいて、かなり複雑な気持ちにさせられました。

    一番胸を突かれたのは、自己リンパ球活性免疫療法を施術する医師から、治療が進むにつれ、「手術、抗がん剤をした上で、免疫療法をした方がいい、、」と勧められる場面。。。米原万里さんは、激昂し、「それを避けるために高額な免疫療法をしているのに、、!」、、と激しい剣幕で医師を言い負かします。おそらく、、その医師も、免疫療法の効果を謳う本を書いていながら、実際のところは、効果に自信がなかったのかもしれません。。このエピソードから、、米原万里さんは、きっとかなり気迫に溢れた強い人だったんだろうな、、と思いました。もし私だったら、、この医師自身がそんなことを言い始める時点で、「やっぱり効かないのかな??」と、心の中で不安になって、、だからといって、医師に激昂して反論する強さもなく、、いろんな人に、「どうしようどうしよう、、!?」と意見を求めてさまよっただろう、と思います。。
   数々の医師を言い負かしてしまうくらいの頭のキレや気迫があることと、、「手術による肉体的な苦痛が怖いから」、とそれを避けること、、その2つの面が米原万里さんという人物の中で共存していたことにも、、考えさせられました。

  その後、米原万里さんは、診断から1年4ヶ月後、左鼠蹊部に転移が見つかり、「免疫療法に効果が無かったことを、身をもって証明した」と書いています。米原さんは、転移がわかってからも、近藤誠医師を再び訪ねますが、「もう切っても切ってもキリがない、治らない」と、氏から冷たい対応をされたことが出てきます。このエピソードは、なんとなく、近藤誠医師のイメージ通りではあるものの、、、最初に、手術しないことを支持したことについて、やっぱり、フォローのコメントもないんだな、、、、と読んでいて思わされました。。。

   その後、米原万里さんは、ついに抗がん剤治療に入るのですが、「あんなに避けたかった抗がん剤治療を、結局受けざるを得なくなった過程について、、いつか体力が回復することがあったら、『お笑い癌治療』という本にしたい」、、と書いています。それが書かれることは遂になかったのですが、、、もし、それが書かれていたら、、代替療法、三大治療の広大な世界をさまよう癌患者にとって、絶対面白くて、有力な体験談、道しるべになっていただろう、日々新たに癌と診断される人にとっても、癌治療の選択にかなりな影響を与える本になっただろう、、と思わざるを得ませんでした。。。
   
    あれこれ書いてしまいましたけど、、この、私が読んだたった15ページの手記は、、、亡くなる一週間前の日付まで書かれていて、、文面から溢れるエネルギーと、最後まで無くならないユーモアに、心が揺さぶられます。読み始めたきっかけは、、「どうして、手術しなかったのかな、、、」という、、米原万里さんの治療の選択を興味本位に評価したくなるような、不遜な気持ちが混じったまま、読み始めてしまった私でしたが、、読んでみると、米原万里さんの治療の選択が正しかったかどうか、、ということは、決して考えたくなくなる本でもあります。それは、全身全霊で、治療に向き合っている姿に、やはり選択の余地はなかった、、と強く感じるからです。

   よく、標準治療を選択しなかった患者が、後になって進行した状態で医療機関での治療を求めてきた場合に、自己責任、と冷たい対応をする医師の話をたくさん耳にします。でも、、私は、この手記を読んで、どのような選択、それが標準治療を避けるものであったとしても、結果的には、その人なりに、全身全霊で、癌に向き合ってきたことの結果であることを見抜けない医師は、やっぱりダメなのだ、と思わされました。

    


                                                    〜完〜


注: 米原万里さんの癌闘病記は、そういうタイトルの単行本があるわけではなく、文春文庫「打ちのめされるようなすごい本」の中に、掲載されています。