息子は、学校でうまくいかなかった日、
家に帰ってくると 暴れることがあります。
ものを投げたり、壁を蹴ったり。
小学校中学年くらいから、時々そういう日がありました。
でも壊しちゃいけないものは壊さない。
息子はちゃんと 「選んで」投げています。
息子にとって「どうでもいいもの」。
そう見えてしまうもの。
ある日、投げられたのは「私の大切にしていたもの」
別居後、息子と二人で暮らし始めたアパート。
その玄関に置いていた、小さな縁起物。
「これから二人で幸せになれますように」
その願掛けの意味で買ったもの。
息子はその意味を知りません。
ただの置物だと思っていたはずです。
でも、それを息子が投げたとき、
私は、泣いてしまいました。
声を殺して泣いていたけど
狭い家だから、もちろん息子にバレます。
「なんで泣いてるの?」
そう聞かれました。
息子には「私が泣いた理由」が分からない
ASDの特性として、
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自分の行動と、相手の感情がつながらない
-
“象徴”や“意味”を感覚で理解しづらい
ということがあります。
だから、息子は悪気があって投げたわけではない。
ただ、自分の中に溜まった「しんどさ」を出しただけ。
息子は、
「自分が物を投げた → ママが悲しんだ」
という 因果関係を理解することが難しいのです。
つまり、
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ママが泣いたのは、息子を責めているからではなく
-
ママ自身が悲しかっただけ
ということが 感覚的にわからない のです。
私は、こう伝えました
「この置物はね、ここに引っ越してくるときに、
あなたと二人で幸せになろうと思って買ったものなの。
ママにとってすごく大切なものなんだよ。」
泣いている理由を 責める形ではなく
ただ事実として、淡々と。
でも本当は、心はボロボロでした。
何が正解だったのか、今でもわからない
子どもが暴れるとき、
親が感情的になれば、子どもは 自分を責めてしまう。
自責は、自傷につながることがある。
だから、
本当は淡々と対応するべきだったと頭では分かっている。
けど、母親だって人間なんだよね。
泣くときはある。
崩れる日もある。
それでも私たちは、いまも一緒に生きている
思春期ASDの子育ては、
「正解がない」毎日の連続です。
今日の自分を責めなくていい。
泣いた日があったっていい。
大切なのは、明日の自分がまた、
息子を好きでいられること。
いつか二人で
「大変だったね」と笑える日が来る。
まだ途中なだけ。
親子の旅の、ただの一章。