執着とは何かにしがみ付き離さない状態になることです。
それは心に大きな抑圧と制限をかけてしまいます。

執着の対象は、人だったりお金だったり時間だったり。
物やペット、考え方、仕事、名誉、命など様々なものがあげられます。

執着心は恐れの感情から生まれます。

過去に体験した出来事がまた繰り返されるのではないかという恐れの感情や
自分への無力感、罪悪感などか絡み合って、
もう二度と同じ境地を味わいたくない思いが
執着心を育ててしまい様々な苦しみを生みだします。

執着の対象がなくなったからと言って、自分が消えてしまう訳ではありませんよね?

人との出会いがあれば別れもある。
お金だっていくらあっても幸せは買えません。
今の仕事がなくなったからと言って、直ぐに死に結びつくこともありません。
物はいずれは朽ちて壊れていくものです。

それを受け入れることが出来ない為に、恐れの感情が膨らんで執着してしまうのです。

執着心があると、今以上執着してるものが手に入らないことが起こります。

こころが捉われの状態になればなるほど、正しい判断が出来なくなり
エゴは蔓延し、自分勝手な振る舞いや発言をしてしまいます。
ネガティブな意識に占領されてしまい、新しいものを手に入れるという
エネルギーの循環が起らなくなるのです。


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仏陀は経典で執着のことをこう言いました。

心に好悪を起して執着してはならない。
好むこと、きらうことから、悲しみ がおこり、恐れがおこり、束縛が起こる。
執着があれば、それに酔わされて、ものの姿をよく見ることができない。
執着を離れると、ものの姿をよく知ることができる。
だから、執着を離れた心 に、ものはかえって生きてくる。


~法句経~

『ものの姿をよく知ることが出来る』とは
本来の在り方を受け入れることが出来るということ。
それは執着の対象物だけではなく、自分自身もです。

心を捉われている状態の自分自身の姿は、曇った鏡と同じで見えません。
ですが執着を手放した時、自分自身の心の在り方や考え方すらも見えてくるのです。

今の現状で本当に必要な何かが見いだせる場合もあります。
今まで意識が向かなかったことが見えだし、やるべきことが解る場合もあります。

『ものはかえって生きてくる』とは「物質が戻ってくる」ではないのです。
自分自身の本当の姿、本来の純粋な心が宿り、神聖な魂が甦るということ。
自分自身を取り戻すことが出来るということなのです。



執着を手放すときに気をつけなければいけないのは、
「執着心を手放すことに捉われる」ことです。


些細な執着から、大きな執着まで人は様々な執着心を持っていますが
それを手放すことに意識が向き過ぎると、
手放すこと自体が執着となるのです。

執着する心を見つけた時、それを受け入れることは肝心なこと。
自分がそこに執着してることをしっかりと認める。
そして、手放すと決意をもって自分に宣言しましょう。

その後は、手放せたかということに捉われないでください。
そこに意識が向けば向くほど、新たな執着が生まれるのです。

執着心を手放すとは、捨てる事とは違います。
ただそこに、そういう思いがあったことを受け入れていくことなのです。