まだ秋のはじめだというのに、陰鬱な曇り空が、冬のような寒さを感じさせる。誰もが、コートの襟を立て、足早に通り過ぎる。夕暮れが、風景の輪郭を奪って行く。みんな、あたたかい灯りのついた家へ帰り、鍋でも囲むんだろうか?
寂しさが、拓也の胸の奥を締め付ける。誰も待つ人のいない、アパートの一室。もう、母さんと言葉を交わす事はできない。
帰り道、歩道と人家の壁の隙間に、小さな一輪の花を見つけた。白い小さな花は、名前もわからない。道行く人のきまぐれな一蹴りで、散ってしまいそうだ。
「母さんのようだ」
と、拓也は思った。
「名もなく、光があたる事もなく、不運なまま、片隅で生涯を終える」
「この花を守りたい」
そんな衝動にかられて、拓也は立ち止まった。
近づいたその花は、凛としていた。きっと、どこからか、種が飛んできて、この場所に落ち、アスファルトの隙間から芽を出し、きびしい環境にたえて、花を咲かせた。やがて、花が枯れても、いや、枯れてしまうからこそ、また、その種は、遠くへ飛んで、命を繋いで行く。
拓也は、以前、母さんに言われた事が、初めて、腑に落ちた。
「拓也、自分の道を見つけたら、凛として、愚直に生きて行きなさい。嵐や風の日が続いても、とにかく、がまんしなさい。必ず晴れる日がくるわ。そうして、みんな大人になるの。強くなれるの。物事が見えるようになるのよ。たくさんの友達や称賛なんて、きまぐれなものよ。そんなもの必要ないわ。人との出会いは縁のもの。拓也が素敵な人になれば、素敵な縁がある。素敵な縁は、大切に大切に、守るのよ」
もう、母さんと話をする事はできない。でも、母さんを想う時、拓也の心に、母さんの想いが響いてくる。寂しい時、悲しい時、迷う時、そして、嬉しい時、母さんなら、こう言うだろうという言葉が、拓也の心の中に聞こえてくる。幼い時からずっと「母さんに本気で叱られた時」「こぼれるような笑顔で褒められた時」「寄り添うように一緒に悩んでくれた時」その一つ一つが、大切な「真知子の遺言」だったのだと、今は、思える。
「母さんは、僕と共に生きている。僕は、けして、一人じゃない」
拓也には、揺るぎない自信がある。それは、「愛されてきた」という自信だ。それは、とてつもなく大きな、何ものにもかえらえない、真知子からの贈り物だ。この世で、もう、真知子と会う事はできないが、かえって、今の方が、真知子の自分への想いを、体中に感じる。だから、自分という「命」を、大切に、生きて行こうと思う。
もし、父母から愛情を受けずに育った人がいたとしても、本来、そんな事は関係ない。人間を超えた、もっと大きな力、神から、一人一人が、愛されているのだから。「愛」とは、受け取るものではない。自ら育て、与えて行くものだ。 拓也は思う。
「隣に座る見知らぬ誰かも、自分と同じように愛されている大切な存在なんだ。だから、命って、すごいんだな。大切な命の輪が、捻じ曲がる事なく繋がって行けば、世の中の大抵の事は、上手く行くような気がする」
院生試験の合格者が、キャンパス中庭の掲示板に貼り出されている。拓也は、自分の番号を確認すると、ゆっくりと歩き出した。
「やったよ、母さん」
見上げれば、雲ひとつない秋の空だ。ポプラ並木は色づき始めていた。ポプラの落ち葉が、拓也の足元でカサカサと音をたてる。母さんの笑い声のようだと、拓也は思った。ザワザワザワ、ポプラの葉が、風に大きくゆれた。緑色から黄色へ、グラデーションをみせるポプラの葉が、陽ざしを受けて、ステンドグラスのように、透けて見える。
「母さん」
自然の美しさに立ち止まる時、拓也は、母を感じる。
「大丈夫よ、拓也。心細くなんかない。拓也は、独りぼっちなんかじゃない。私の命は、君の中にある。命は、繋がってるんだよ」
そう、励まされているように感じる。
「母さん、やって行けそうだよ」
見上げるポプラは、未来という青空にむかって、のびやかに、両手を差し出している。