突然に襲った胸の痛み。これまでに経験した事のない痛みだ。背中を、大きな石で殴られたような感じだ。息が苦しい。プールの底に沈んで溺れて行くような感じだ。

「これは、尋常ではない」

真知子は、テーブルの上にある携帯を取ろうと立ちあがった。見慣れたはずの室内の景色が、メリーゴーランドのように回転する。

「救急車を呼ばなくちゃ、でも、テーブルまで、たどり着けるだろうか?」

テーブルまでの数メートルが、果てしなく思えた。立って歩く事ができずに、真知子は、その場にくずおれた。「死」が迫っている。いよいよ、その時が来たのか?とてつもない恐怖が真知子を襲った。とっさに、真知子は、十字を切った。

「神様、私を迎え入れて下さい。そして、最後のお願い。どうか、一人になる拓也を守って」

真知子は、ふりしぼるように、この世での、最後の言葉を叫んだ。

「拓也」

 

 急に、ふわりと体が軽くなった。痛みも息苦しさもおさまった。

「よかった」

そう思った真知子の目に、不思議な光景がとび込んできた。不自然な恰好で、自分が、床に横たわっている。

「どういう事?」

そして、真知子は、自分が自由に移動できる事に気づいた。

「拓也に知らせなきゃ」

しかし、宙に浮いているような自分の感覚が、普通ではない事に気づくと、

「やはり、自分は死んだのだろうか?だとしたら、やっぱり、死んでも、自分はいるんだな」

真知子は、妙に冷静だった。その時、あたりが急に暗くなった。真知子は、人一人がやっと通れるような真っ暗なトンネルの中へ引きずり込まれた。スピードは、加速して行く。やがて、光が見えた。トンネルの出口だ。見た事もない、美しい光。真知子は、光に包まれると、得も言われぬ安堵感、幸福感に包まれた。

「私は、全ての罪から、許されたんだ」

真知子は、つぶやいた。

 

 この世で、100%確かだと言える事などないに等しい。しかし、この世に生を受けた者にとって、「死」は、100%確実だ。それなのに、「死」は、忌み嫌われ、不吉なものとして、日常の中で、あたかも存在しないかのように扱われる。「死」を前にした人間は、無力だ。底の見えない暗い穴を覗き込むように、恐怖に打ち震える。一日でも、寿命が長い事を願う。そして、寿命の短い昆虫などの生き物を哀れに思う。人間は、傲慢だ。例えば、人間が哀れに思う小さな蜜蜂という種が、地球から絶滅しただけで、地球という生命体の生態系壊れ、やがて、植物が育たなくなり、人間は、餓死する。誰もが、そんなつまらないシュミレーションは、笑い飛ばす。地球の多くの地域で、餓死している子供達がいる一方、ダイエットサプリを飲みながら、飽食をむさぼる人達がいる。けれど、そんな矛盾に悩む人はまれだ。人間は、目にみえないもの、自分に理解できない事、自分にとって都合の悪い事は否定する。それがなくては数分で死に至るのに、自分の周りに空気が満ちている事さえ、目にはみえないので、意識する事はない。傲慢で鈍感な人間が、すぐに夢中になるのは「金」「名誉」「権力」だ。人は、群がるように、それらに魅せられて、生涯を終える。それらを手にするためには、身近にいる大切な家族すら犠牲にする。「金」は、後からでも稼げるが、幼い子供達と過ごす時間には限りがある事すら気づかない。

「死」ほど、全ての人を、丸裸にするものはない。服をはじめ、身を飾っているものは、全て、排除される。肉体でさえ、この世に脱ぎ捨てて行く服の一部に近い。「金」「権力」「名声」それらは、あの世では、邪魔なものだ。丸裸になった死者に、残るものは、なんだろう?それは「いかに生きたのか?」「誰を愛し」「自分に与えられた使命を果たし」「いかに謙虚に己を理解できていたか?」

そして「宗教」という登り口が、それぞれ違っていても「愛に生きた人達」「使命を果たせた人達」は、神のもとへと招かれて行く。「神など存在しない。『死』は『無』である」と、信ずる者は、その通りに。それぞれ、あるべき所へと導かれて行く。

 

 真知子は、ぶれる事なく生きてきた。一般的に考えれば、不運で、かわいそうな人だ。幼くして母を失い、家族には恵まれなかった。夫も早く失い、金銭的に恵まれる事はなく、乳癌で、短い生涯を終える。拓也の子育てだけが、真知子の生涯の全てだった。      

 しかし、真知子は、この世では輝く事のないたくさんの「宝」を持っていた。与えられた「運命」を、そのままに受け止め、「泣き」「笑い」与えられた「使命」を、懸命に果たした。自分の余命を受け入れ、拓也の幸せを願う中で、真知子は「愛」とは何なのかに気づいた。

 

 真知子にとって「死」は、あたたかいものだった。

 

 

全ての終わりは、全ての始まり

全ての息吹が、そう告げている

 

 先の者が後になり、後の者が先になる

 金は石になり、石は金になる

 

 命とは何か、永遠とは何か

 己とは何か、愛とは何か

 

 死をもって、人は知る

 

 

 拓也は、駅前のコンビニで、真知子のために、苺のショートケーキを買った。一個320円のケーキは、貧乏学生の拓也にとっては、高価だったけれど、真知子の笑顔が見たかった。TVのコマーシャルで、そのケーキを見た真知子が、うっとりするような笑顔で、

「おいしそう」

とつぶやいていたのを、拓也は見逃さなかった。幼い拓也の笑顔を、真知子が望んだように、今度は、拓也が真知子の笑顔を望む。

「一瞬でも、病気の事なんか忘れて、楽しい気分になって欲しい」

何もしてやれない、無力な自分に、腹をたてながらも、真知子と過ごすささやかな時間を大切にしようと、拓也は決めていた。

 

 角を曲がると、アパートが見える。幼い頃からの思い出のつまった小さなアパートの2階に灯る明かりをみる度、拓也の心は、ぽっとあたたかくなる。

 

 しかし、何度、確かめても、明かりは、見えない。

「母さんが、こんな時間に、一人で出かけるなんて、あり得ない」

一瞬で、拓也の鼓動が、速くなる。思わず、駆け出した。薄暗いアパートの玄関の前で、震える手で、鍵を探す拓也の手から、大切に捧げ持っていたケーキが、滑り落ちた。