真知子は、洗礼を受けた。洗礼を受けるという事は「イエスを信じる」と宣言する事だ。つまり「人間の英知を超えた神の存在を信じる」「永遠の命を信じる」という事だ。洗礼を受けた瞬間、真知子は、自分の中にあった「死」への恐れが、霧が晴れるように、消えて行くのを感じた。

 

 若き日の真知子にとって、最後に宗教に救いを求める人達は「自らの弱さに勝てなかった人」というイメージしかなかった。しかし、今は思う。神父の言葉のように「順調に進んでいるいる時は必要を感じなくても、人生の地図は必要だ」特に、人が「死」へと向かう時は…

「命」は、それぞれが「唯一の存在」だ。それぞれが、違った「使命」を授かっている。生後わずかしか生きなかった「命」にも「障害者」と呼ばれる「命」にも、神が与えた、それぞれの「使命」がある。その大切な「命」を、繋いで行くという事は、単に血縁を指しているのではなく、もっと、ずっと、深いものだ。

 

 真知子は、「イエスの十字架の道行き」を思った。イエスは、自分を救うために、奇跡を起こさなかった。世に使わされた自分の使命を理解していたからだ。処刑前日の夜には、寂しさから、ペテロを呼ぶ。だが、ペテロは、他人ごとのように、熟睡したまま、起きなかった。亡くなる直前には、苦しさのあまり、十字架に貼り付けられたまま「父よ、私を見捨てるのですか?」と叫んだ。その「道行」は、「死」へと向かう、全ての人間に対する「思いやり」のように思える。イエス自らが、立派に死ぬのではなく「死」へと向かう人間としての「孤独」「恐怖」「苦しみ」「痛み」を、そのままに見せてくれている。「死」へと向かう人間の苦しみに寄り添い「そのままでいいんだよ」と励ましているかのようだ。

 

「イエスが自らを犠牲にして救おうとしたのは、この私自身でもあるのだ」

 

真知子は、突然、そう、体中で感じた。陽だまりの中で、暖かい安堵感につつまれているような感覚だった。どの「命」も「死」を避けられない。その事も含めて、真知子は、自分という「命」を与えられた事への、深い「感謝」の思いが、突き上げてきた。