「チクショー!なんでだよ!なんでだよ!」

拓也は、積み上げてあったパンフを壁に投げつけた。拓也は、この夏休み、真知子には内緒で、物流繁忙期のバイトをした。後期の授業料を払った残りで、真知子と二人、温泉旅行へ行こうと、計画を立てていた。そのために集めたパンフだった。拓也が物心ついてから今まで、いつだって、生活はギリギリで、親子で、旅行などした事がなかった。真知子が驚き、喜ぶ顔が楽しみだった。「異常ナシ」の検査結果の連絡をもらった後に、真知子を二重に喜ばせようと思っていたのに。

 

「大学は、やめよう」

拓也は、決めた。

「自分の夢なんか追ってる場合じゃない。何が何でも、真知子の命をまもらなくちゃ。真知子には、すぐにでも仕事を止めて、治療に専念してもらおう。治療費や生活費は、おれが稼ぐ。当たり前の事だ。これまでずっと、支えてもらって来たんだから」

 

 拓也から、直接、話を聞かなくても、真知子には、拓也の考えは、わかっていた。だからこそ、真知子は、悩んだ末、仕事を止めて、生活保護を受ける事にした。

「自分の命と引き換えにしても、拓也の未来を守りたい」

見え隠れする人生の終焉を前に、真知子の「望」は、はっきりと浮き出てきた。

 

 生活保護の手続きは、予想以上に煩雑だった。しかし、頼れる親戚もおらず、預貯金も不動産もなく、末期癌である事を加味され、申請は、思いのほか早く通った。しかし、同時進行で、正社員ではないとはいえ、長年勤めた仕事を止めるための、引継ぎもあり、生真面目な真知子は、落ち込むゆとりもなく、日々が過ぎた。

 

 もう、仕事をやめるのだから、乳癌の事など、同僚に話す必要はなかったが、真知子は、伝えた。伝える事で、今一度、これが、現実なのだと、自分に言い聞かせたかったのかもしれない。

 
エリは、言う。

「まぁ、でもねぇ、いつどうなるかなんて、誰にもわからないから。地震だって起きるかもしれないし、事故に遭うかもしれないし。だから、清水さんだけじゃなくて、みんな一緒よ。一日一日を大切にして、頑張りましょう」

エリに悪気はないんだろう。真知子を励ます気持ちが半分。残り半分は、罠にかかった小動物のような真知子が哀れで、波立つ自分の気持ちを、何とか理屈をつけて、なだめたい。そんな所だろう。

 でも、真知子は納得が行かない。一年後、彼女が生きている可能性が99%死ぬ可能性が1%だとしたら、真知子の場合、その割合は逆だ。現実のものとして「死」が、すぐ近くまで迫って来ている。自分が感じている、一日の大切さと、エリの言う「一日一日を大切にして…」とは、重みが違う。

「気軽に、わかったような事を言わないで」

真知子は、叫びだしたくなる。誰も彼も、気軽に正論を吐く。でも、誰も彼も、本当に、その言葉の意味を理解しているんだろうか。歩行が困難になった真知子に、たくさんの人が投げかけた言葉は、

「でも、車椅子でも、人生を謳歌している人もたくさんいるわ。真知子さんも負けないで。事実を受け入れて、前向きに頑張るしかないじゃない」

やはり、真知子は叫び出しそうになる。

「自分が歩けなくなってみてから、言ってよ」

そして、今度は、そんな自分に嫌気がさす。

「人の言葉を素直に受け止められない自分は、癌に、心まで、蝕まれてしまっているんだろうか?」

 でも、そんな正論で、深刻な問題と向き合おうとしない人達に限って、いざ、自分が同じ立場に置かれれば、大騒ぎするんだろう。