「カチャッ」

拓也だ。

 
拓也は、狭い玄関の暗がりで、ごそごそとスニーカーを脱いでいて、表情が見えない。拓也が帰ってきたら、たたみかけるように、あれこれ聞くのではなく、まずは、労をねぎらってやろうと思っていたのに、ダメだった。

 

「どうだった?」

真知子の質問に、拓也は、無表情なまま答えた。

「ダメだった」

そして、いつものくつろいだ表情に戻ると、

「満点じゃなかった。国語と社会で、それぞれ一問ずつ間違えちまった」

拓也は、茶目っ気のある笑顔を見せた。

 

「ダメだった」の冗談に、一瞬、息が止まりそうになった真知子は、

「も~、ひどい!」

と、拓也の肩を払った。そして、今度は、ひどくほっとして、泣きそうになった。小刻みに震える手を悟られないように、真知子は、平静を装う。

「すごいね、拓也、本番で、3教科満点を取るなんて。間違いなく合格だね。レジェンドだね」

「いやいや、合格発表までは、わからないよ。今年の入試問題はチョー簡単で、満点とるヤツが続出してるかもしれないよ」

「もう、バカ言ってないで。疲れたでしょう。ごはんにしようね」

 

 一週間後の合格発表の日は、悲喜こもごもだ。佐藤先生の鼻をあかしてやったと思うと、真知子は、スカッとした。拓也の通う中学から、泉高への合格者は2名。拓也と勇希だ。毎年、誰が、泉高に合格したのかは、ちょっとした話題になる。勇希の事は、皆の予想範囲だったが、拓也については、皆、絶句した。

「エッ、あいつ頭よかったのか?」

 

それぞれの塾は、地域に速報を印刷して配る。上位高校への合格者は、コメントと名前が載る。真知子は、それが、ポストに入れられるのを、楽しみにしていた。だって、母子家庭という目でしか見られてこなかった自分達親子が、羨望の眼差しで見られるのだから。だが、ポストから取り出した速報を見て、真知子は、唖然とした。泉高合格者は、勇希一人しか載っていなかった。帰宅した拓也に尋ねると、自分の意志で、載せなかったのだと言う。

「え~なんで、拓也頑張ったのに、すごい事なのに、レジェンドじゃないの?」

「だって、不合格で、山下先生に抱き着いて泣いている子を、見たんだ。それなのに、自分だけ受かってバンザイなんて、思いやりがないじゃないか。レジェンドは、自分の中にだけ、あればいいのサ」

何だか、真知子は、急に自分が恥ずかしくなった。大人になって行く拓也が、まぶしく思えた。

 

 高校になると、授業は、ぐんと難しくなる。泉高からは、毎年10名前後の東大合格者が出ている。中高一貫の私立が躍進している中で、一学年、わずか300名程度の公立高校としては、驚異的な数字だ。泉高の中で、中位程度の成績を維持していれば、MARCHは確実、上位者は、国立大、及び、早慶に楽々と合格して行く。

 泉高に合格はしたものの、

「拓也は、みんなについて行けるんだろうか?」

真知子のそんな思いは、杞憂に終わった。一年次は、トップクラスの成績だった。二年生になると、もう、受験の話題が出て来る。担任との面談で、狙える志望校の中に、東大、早慶の名前があがった。

 

 真知子の中で、何かが変わって行った。

「私は、優秀な息子に恵まれた。それは、母子家庭というハンデの中で、母として、頑張ってきた成果だ」

街中で、中学時代の拓也の同級生を見かけると、勝ち誇ったような気分になる。苦手だった勤務先のランチタイムのおしゃべりの中で、子供の進学の話になり、拓也が泉高だとわかると、みな、一斉に歓声をあげた。

「スゴ~イ!」

謙遜して見せながらも、真知子の鼻は、果てしなく高くなる。いつしか拓也は、自分を飾るひとつのブランドのようになって行った。

「今は、とても、貧しいけれど、拓也が、エリートコースを歩むようになれば、経済的にも、母として、報われるようになるんだ」

そんな夢まで、描くようになった。

 

 拓也は、真知子の内面の変化に気づく事はなかった。相変わらず、早朝から、拓也の弁当を作り、仕事や家事を頑張る母に、感謝していた。

 

 小、中、を共に過ごした幼馴染として、拓也と勇希は、言葉を交わし合う仲になっていた。勇希は、数学や物理で、とびぬけた回答をする拓也に一目置いていた。

「清水みたいに、理系に強ければ、国立狙えるよナ。どこが志望なの?」

「まだ、何も決めてない。でも、ウチ、経済的に厳しいから、国立じゃないと、無理だと思うんだ。理系の場合、私立だと、月に10万近くかかるだろ。国立なら4万5千ポッキリだもんな」

「偉いな、清水、親の負担とか考えて。でも、羨ましいよ。清水のお母さんは、清水の事、ちゃんと考えてくれているんだもんな。ウチなんか、ひどいもんサ。一浪しても、医学部受かんなかったら、世間体もあるから、留学でもしてくれ、なんて言うんだゼ」

「でも、ヤッパ、金の心配しなくていいって、羨ましいナ。東大って、ウチみたいな低所得者は、授業料免除になるんだって。魅力だよ。かなりキツイけど、挑戦してみようかと思ってる」

「それは、いいネ。清水なら、無謀な挑戦ってわけじゃないよ」

「ウ~ン、でも、東大に受かるためには、やっぱり、塾とか行かないとでしょ。ウチ、そんな金ないからナ~」

「確かにナ~。今どきの、東大生は、金持ちの子ばっかりらしいぞ。金かけて、小さい頃から、特訓するんだろうな」

「ヤッパ、無理ぽい。それじゃ、おれ、入ってからも、生活レベル違い過ぎて、ついて行かれないよ」

「でも、東大出て、エリートコースに乗れば、清水のお母さんも楽になるぞ」

「うん、そうだね。でも、ウチの母さんは、欲のない人なんだ」 

 

 拓也は、費用を含め、大学の進学について、いろいろと調べ始めていた。まず、理系か文系かによって、大きく違ってくる。文系の場合、学部の選択肢は実に多い。授業料その他の差は、私立か国立かで、差はあるものの、私立が3割増し程度だ。しかし、理系の場合は、大きく違う。学部そのものが限られており、経済的負担は、私立は国立の倍以上だ。入学時に支払う額も、国立が50万ほどなのに対して、私立は200万弱が必要になる。理系コースの場合、偏差値上位校ほど、院への進学が、暗黙の了解であるから、6年間の、金銭的な差は、膨大だ。しかも、理系の場合は特に、偏差値が同等であっても、就職する時の企業の受けは、どうしても国立が上になる。

「国立しかないな」

拓也は、腹をくくる。そんなにも、国立のメリットが多いのに、受験生は、国立を毛嫌いする。なぜか?やはり国立は狭き門であり、浪人する確率が高くなるからだ。国立は、全国に点在するものの、私立に比べると、それぞれ募集人数が少ない。そして、前期、後期、それぞれ一校しか受験できない。後期はみずものだから、実質的には一校しか選べない。私立の合格発表、及び入学金の支払いの締切は、国立の発表前というのも悩ましい。そして、受験生が国立を敬遠する一番の理由は、受験科目が多すぎる事だろう。国立の受験は、2段階になっている。センター試験5教科7科目で、ボーダーをクリアできなければ、本試験に進めない。東大に至っては、7科目の総合点を、85%以上は取らないと、足切りにあう可能性が高い。平均得点率が50%程度になるように作られたセンター試験7科目を、どの科目も8、9割の得点を目指して勉強するのは、かなりハードだ。それなのに、センター試験は、ある意味、大きな意味を持たない。本試験の難易度に比べれば。それでも、大学進学など、あきらめていた拓也にとっては、挑戦できるという事だけでも、何だかワクワクした。