今でも、雨の日が嫌いだ。あの日を思い出してしまうから。母も、英治も、雨の降る日に亡くなった。

 

真知子は、小学校の時から、電車通学をしていた。真知子の母も、真知子の通う私立学校の出身だった。まだ、選択肢を持たない幼いまま、真知子も姉も、その学校に入学させられた。大学まで続いている、地元では知られたカトリック系のミッションスクールだ。真知子と姉は、6才の年の開きがある。真知子が小学校に入学した時、姉は中学校へ進学。その学校は、小学部と、中、高等部が、離れた場所にあったため、真知子は、姉と、一緒に学ぶ事はなかった。年の差のある姉から、真知子は、特にかばわれたり、優しくされたりした記憶は、あまりない。それどころか、姉にとって、自分は、どこか疎ましいような印象すらあった。姉にとって、大好きで、いつも独り占めしてきた母を、新参者の妹に、横取りされたような感覚がずっとあったのかもしれない。

けれど、母も姉も、真知子にとっては、輝くほどに、憧れの存在だった。地味な印象の真知子に比べて、顔だちのよく似た、母と姉は、華やかな美人で、活発で、友達も多かった。

 

真知子の家から、最寄り駅までは、徒歩15分ほどかかる。バス便がなかったため、朝は、いつも、真知子と姉を、母が、車で、駅まで送ってくれた。

 

女子ばかりのミッションスクールというのは、修道院のような、独特の雰囲気がある。校長はじめ、幾人かの先生は、修道女であり、長いベールを被った黒づくめの服装をしていた。小学校にあがったばかりの幼い真知子は、シスターと呼ばれる先生達の、そのいでたちに、おびえた。

 

入学して間もなく、本好きな真知子は、学校の図書室で、一冊の本を借りた。ところが、返す前日に、真知子は、開いた本の上にジュースをこぼしてしまった。急いで布巾でこすったため、被害はよけいにひろがり、美しい挿絵は、みるも無残な有り様だった。

「どうしよう」

母に言っても、学校の先生に言っても、怒られそうだ。大人にとっては、些細な出来事でも、幼く気の小さい真知子にとっては、学校へ行きたくない位、憂鬱な出来事だった。

  

昼休み、図書室の返却コーナーに座っていたのは、黒づくめのシスターだった。真知子の緊張は、よりいっそう高まった。

「あの…昨日、本の上にジュースをこぼしちゃったんです。ごめんなさい」

「まぁ」

シスターは、さっそく、汚れたページを開いて、チェックした。そして、慈しむような瞳で、真知子の目を見ながら話した。

「正直に話してくれてありがとう。黙って、この本を返してしまえば、ばれない事なのに、正直に話すのは、とても勇気のいる事ね。でも、あなたは、話してくれた。それは、次にこの本を借りた人が嫌な思いをしないようにって、考えたのよね」

そこまで、深い考えが、真知子にあったわけではなかったが、怒られる事を覚悟していた真知子は、力が抜けるほど、ほっとした。

「こういう汚れはね、たっぷり水を含ませた柔らかい布で、こすらないように、そーっとふくの、乾きかけたら、アイロンをかけると、綺麗になるわよ。本にアイロンって、面白いでしょう?」

悪戯ぽく笑うシスターにつられて、真知子が微笑むと、シスターは、真知子の小さな手に、そっと、自分の手を重ねて、ささやいた。

「誰も見ていなくても、誰にもわからなくても、これからも、神様の前で、正直でいましょうね」

 

 真知子にとって、シスター達の歩く時の、さわさわとした衣擦れ音や、かすかなお香の香りは、安心感を与えてくれるものとなって行った。

 

ミッションスクールの朝は、祈りと聖歌で始まる。聖書の勉強をする授業もあったが、生徒の中でクリスチャンは、全体の一割にも満たず、特に、入信を強制されるような事はなかった。他の宗教を否定しない事は、カトリック教義に定められているからだ。

 

年に2回の授業参観の日、真知子はそわそわしながら、母が教室へと入ってくる瞬間を待つ。私立のその学校の生徒のバックグラウンドは、金持ちというより、名家、旧家が多かった。大企業の社長、政治家、文化人、そうした家の奥さん達が集まる時の暗黙の了解は「目立たない事」。真知子の家は、一介のサラリーマン家庭だったが、真知子の母は、著名な文化人だった父を持ち、この学校のOBだ。そこの所をよく、心得ている、母のいでたちや振る舞いは、いつも、危なげがなく、すらりとして、品がいい。優しい笑顔の母は、真知子の自慢だった。

 

真知子が小5の秋、その日は、午後から、突然の激しい雨となった。いつも、最寄り駅から、ゆっくりと歩いて帰る真知子だったが、あまりの激しい雨に、駅の公衆電話から、母に、駅まで迎えにきてくれるように頼んだ。学校を出る時には、まだ晴れていたので、傘を持っていなかったのだ。母は、よくあるいつもの事と、電話口で、優しく言った。

「じゃぁ、いつもの所で待っていて」

 

いつもなら、5分ほどで現れる母は、30分経っても、現れなかった。もう一度家に電話したけれど、誰もでない。真知子は、少し小ぶりになった雨の中を歩き出した。帰宅した時、家の駐車スペースに車はなく、母の姿もなかった。真知子が着替えを済ませたのと同時に電話が鳴った。

「父さんだ。真知子、落ち着いて聞くんだよ。母さんが事故に遭ったんだ」

 

一瞬の事故で、母は亡くなった。

 

11才の真知子には、理解できない出来事だった。しかしまた、11才という幼さゆえ、そのままに、受け入れられた出来事でもあった。

 

一日おきに、家政婦さんが来るようになり、家事やこまごました事は、すでに高校生の姉が取り仕切るようになった。父は、一年のうち半分は、海外出張で留守だった。ある日、ささいな事で、姉と口論になった。気丈な姉が、突然泣き出して叫んだ。

「我儘言わないでよ。あんたのせいで、お母さんは死んだんでしょう」

真知子は、何も言い返す事が出来なかった。「そうだよね。私が、あの日、お母さんに迎えを頼まなければ、お母さんは、今も生きていたんだから」

 

数か月後、真知子は初潮を迎えた。一人でドラッグストアへ行き、必要な物を買い揃えると、誰にも気付かれないように、一人で処理した。

 

無邪気なクラスメート達の中へいても、会話のはずまない家庭にもどっても、真知子は孤独だった。

「でも、それに耐えなくちゃ。お母さんは、私のせいで、死んだんだから」

 

ある日、能面のような顔をした真知子に、図書係のシスターが声をかけた。汚した本を正直に申告した事がきっかけで、仲良くなったシスターだ。本好きな真知子とは、話が合い、面白い本をいつも、勧めてくれる。

「真知子さん、少しづつ落ち着きましたか?」

「えぇ」

と答えた途端、なぜか真知子の目から、涙がこぼれ落ちた。

「シスター教えて。聖書にある罪って。私のような者の事ですか?私が母を殺したから?」

シスターは、大きく瞳を開くと、図書室のカウンターから出て、泣いている真知子の手をとると、奥にある控え室へと導いた。小さな控室のパイプ椅子に向き合って座ると、シスターは、真知子の手を両手で包み込みながら、目をみつめた。

「真知子さん、何でも話して。つらい事、なんでも話していいのよ」

切れ切れに、真知子は、自分の葛藤や悲しみを話した。最後に、真知子は、号泣した

「お母さんに、もう一度会いたい」

真知子の肩を抱いて、シスターは言った。

「必ず、また、会えますよ」

 

 母は事故死であったが、英治は自死だ。長い間、真知子は、拓也に、その事実を伝えられなかった。