昨日のブログで…

「病気だから見えてくるものもある」

と書いた。


「末期癌」という現状から見えてくるものは、何だろう…?



誰でも、やがて自分も死ぬんだとわかっているはずだ。

でも…

「夏休みの始め」に「夏休みの終わり」を考えたりしないように、そんな先の出来事を、みんな深く考えたりはしない。

「死」だなんて、そんな怖ろしくて不吉な言葉は、見えない所に放り投げてしまう。


でも「末期癌患者」はそれができない。

この数年、常に「死」と向き合ってきた。


「死ぬ事」は、あまりに怖ろしくて…

矛盾するようだが、自らそこへ、飛び込んでしまいたくなる時もある。

近づいてくる「死」を遅らせるだけのつらい治療は…

常に虚しさがつきまとう。

痛みに苦しむ時には…

「治らないのなら、早く死にたい」と思う時もある。


けれど、そんなふうに思っている時は、まだまだ「死」は遠いんだろう。


これまで、本当に「死」を近くに感じたのは…

手術室へと向かう時

遠隔転移を告知された直後

2年前の潰瘍性大腸炎の悪化


「死」を体感する感覚をうまく説明できないが…

そこに「恐怖」はない。


全身が粟立つような感覚と共に…

胸の内から、マグマのように、熱いものがあふれでる。


強く感じたのは…

自分という命が…

生まれてこれた事への、深い感謝

家族への…

むしゃぶりついて、叫び出したいほどの愛


その時私は「死」という暗い影によって、初めて「命」の輝きをみたような気がする。


ずっと、ずっと、悩み苦しんできた息子の「障害」

皮肉な事に「死」を突きつけられ…

「命」とは何なのかを体感した途端…

霧が晴れるように、葛藤は消え去った。


「命」の価値は長さじゃない!

ましてや「障害」の有無なんかじゃない!

たとえ、障害を持って生まれ早逝した「命」でも、大きな意味を持つ



凡人の私は「わかった!」と思っても…

「逃げ水」のように、また、物事がわからなくなる。


けれど…

身に染みてわかっている事は…

「当たり前の日々は、当たり前じゃないんだ!」という事


平和

食物にあふれた社会

働けるという事


普通に…

見たり、聞いたり、歩けたり、食べられたり…

健康

そして…


「命」


「障害」「病」だけじゃない…

親からも、誰からも、愛されずに育ってきた人でも…

努力しても、人並みにできる事が少ない人でも…

癒されない大きな傷を「心」に抱えている人でも…


「死」というものから逆算して…

なぜ自分という「命」が、今、ここにあるのか…?


もう一度

「自分」という「命」と誠実に向き合ってみたら…


これまでと違う「答え」が

みつかるような気がするの…




クローバー 裕子