我々が、実際に、『ある』と思っているもの、例えば、この世とか、私とか、他人とか、物とか、というものは、果たしてそのようにあるのであろうか。たしかに有るのではあるが、それは、我々の心を離れてとらえられるものではない。実際にあるにはあるのであるが、ひとり物が存在したり、ひとり心が存在したりするわけではない。こころ豊かな人には、物も豊かに語りかけて美しく、こころ貧しい人には、物も暗く映る。私が、今、見ているもの、思っているもの、感じているものは、私が、今、まさにこの世と『かかわっている』、その『ありさま』なのである。『そのもの』は存在しても、見られた形がそこにあったり、快い美しさがそこにあったり、いとしい可愛さがそこにあったり、いわんや、『自分のもの』であるそれがそこにあったりするものではない。

 「私にとってこそ」、それらのものは、美しくも、醜くもあり、その形をしてその場所にあるのであり、また、「そのものであるからこそ」そのものは、そのものならではの仕方で、とらえられているのである。この意味で、「とらえられたもの」とは、私の心の豊かさであり、「私の心」は、ものに映し出されるのである。

 私の『思い』(意識)また私が思っている『住んでいる世界』というものは、『深い深い私』と『世界』との『かかわり』であり、私は、『私そのもの』を知ることもできないし、『世界そのもの』を知ることもできない。ただただ私は、その中にあって、『世界』を解釈し、逆に、「世界とはこの様なものである」と思いなして、その自分で想定した『住みかとしての世界』に安住しているのである。たとえば、

 食欲深きひとは、おいしい食べ物と、食堂を中心として世界を描き、

 慈悲深きひとは、人の心に感じて、喜怒哀楽の世界を友にする。

 この『住みかとしての世界』は、ひと(また生き物)さまざまであって、その人の、人となりによって仮に完成されて、それぞれに、その人の『欲望の遊び場』を提供している。  これが『空』なる世界の一面である。

 世界の『枠組み』は、そのひとの信ずる世界観によって組み立てられ、

 世界の『彩り』は、そのひとの心の豊かさによって感じられる。

しかし、この根底にあるものは、私が人間として生まれたこと、

私が、私の経験によって育ったこと、このことである。

 つまり、私を生き続けさせ、支えているもの=『私にもわからない私』こそが、私をして、世界を成り立たしめているのである。

 ここにおいて、『私のとらえている世界』は、『空』=私による私だけの世界であって、

普遍性を持たない。また、それは、ことに私の『深層の何か』=身体的欲望と、『そとの世界』との、『かかわり』であって、『空』=もちつもたれつ、ひとときもとどまることがないのである。

 だから、我々は、真実を見るために、自分自身を越えなくてはならない。それは、『深層の何か』=欲 煩悩 無明 渇愛 身体 経験 記憶 習慣 菩提心 慈悲 を変化、成長させることである。

 また、我々の心、意識というものが『ひとり』存在しないように、

 あらゆるものは、何一つとして、単独にひとり存在しているものはない。すべて、ありとあらゆるものは、他のもの、まわりの世界と、相互に、関わり合うことで成り立っている。というより、何一つとして、この世界から、それだけを単独に取り出せるものはないのである。この網の目のように、互いに、もちつもたれつつながった世界で、あらゆるものは、流動しつつ、価値(それぞれの最小単位で、あるいはかたまりとしての他への影響力)を孕んでいる。

 『空』を知るとは、自己の『不十分性』『浮遊性』を自覚し、絶えず『ゼロからの視点』によって自己を見失わないことである。

 そして、我々は、『空』=『自己の未発達性』『物事の流動的相互関係一体性』を知れば知るほど、不動のもの自覚する。それは、我々が、すでに『生きて、居る』ということ、『苦しむ、痛みを持つ、生きつつあるものである』ことである。私は、私が、深層の何か=欲によって突き動かされるその以前に、私や、生きとし生けるものが『悲しい、痛める、苦しむ』者であることを自覚しなければならない。

 われわれの前に、生存の『苦』が、無防備に晒されているのである。

 ここにこそ、生きることの第一歩がある。