暗闇や影は光と同じぐらい重要なものです。
 影によって光が現れ、光がどんなものかを示してくれます。影のない絵はありません。 私たちは、それらを嫌ったり、避けようとしますが、本当に貴重なものなのです。私たちに色々なことを教えてくれます。
 暗闇や影は神聖なる計画の一部であり、同時に神聖なる計画を構成していて、それがなくては創造も未完成なのです。
 もし、一人の人間が光しか存在しない部屋で生まれ、暗闇というものを見たことがなければ、誰かに 「光とは何ですか?」 と尋ねられても、何と答えていいか分かりません。
 しかしもし誰かが彼を外に連れ出し、暗い夜の空を見せたら、その時、彼は答えることが出来るでしょう。光は暗闇を見て、初めて光の何たるかを知ることが出来ます。
 私たちは光です。そして自分たちが何なのか知るために、この分離の世界の中に、傷つきやすい、滅びる自己の影 (現在のパーソナリティー) を振り当て、暗闇を経験しているのです。
 何故なら、もし滅びることがなければ、どのようにしてこのちっぽけな自分の影はいつかなくなる暗闇 (人生) を理解し、経験することが出来るでしょうか? もし、私たちが不滅であるなら、どのようにして私たちはこの惑星で何かを経験することが出来るでしょうか?
 このことが聖書で次のように書かれています。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」 (コリント-1、15-54)
 この地球で私たちは影の意味を学び、自分たちは誰なのか、何なのかをもっとよく知るために生きています。
 「しかし、もし私たちが神であり、神ご自身の投影したものであるなら、そして神は全て意図されたことを知っている全なる知恵ならば、何故、私たちは最初から自分たちは何なのか、暗闇とは何なのか知らないのだろうか? そしてこのようにたくさんの辛い経験をしなくてはいけないのだろう。」と、言う人もいます。
 確かに、私たちは理論ではこれらのコンセプトを知っているのですが、個人的にそれらを経験したことも、味わったこともなく、それらと一体になったこともないのです。