たまには、まじめに文章を書いてみようと思う。
昨日殺人の門というのを読み終えた。
作者は東野圭吾の作品である。
作者は東野圭吾の作品である。
大まかな粗筋を書くと
主人公は、歯医者の息子で裕福な家庭に生まれた。 しかし、おばあちゃんの死をきっかけに、その後不幸が重なり家族は離散してしまう。 そして、家庭は崩壊し、貧しい家庭となる。 いじめを受けながら、学校生活を送る中ある一人の男と出会う。 この男が、次々と主人公が幸せになろうとするたびそれを奪っていく。 例えば、恋や仕事などうまくいっていると現れるのである。 おばあちゃんの死をきっかけに、人の死について興味を抱く主人公は この男を殺そうと何度も思い、実行に移そうとするが この男にいつも惑わされ、迷わされ、やがて殺人の意志が萎えてしまう この二人の奇妙な関係を書いたものである
と粗筋を説明したのだが、専門家ではないのでうまくまとめられない。
これだけは申し訳ないと思う。
これだけは申し訳ないと思う。
しかし、今回は別に作品を紹介しようと思ったのではない。
ここの作品の一番のポイントは
人は、どのように殺人を起こすのか
殺人に至るにどのような壁を超えるのか
人は、どのように殺人を起こすのか
殺人に至るにどのような壁を超えるのか
である。
別に殺人のことではなく、このブログらしく
どのような過程でヲタになるのか
ヲタになるのにどのような壁を越えるのか
どのような過程でヲタになるのか
ヲタになるのにどのような壁を越えるのか
このことについて書きたいと思い、この記事を書いている。
さて、この作品で一番うなずいたのがこのフレーズだった。
動悸があっても殺人は起こらない。それは、タイミングだったり環境が揃った時に起こる
動悸があっても殺人は起こらない。それは、タイミングだったり環境が揃った時に起こる
わたくしがこの世界に入るきっかけもまさにそうだったのだ。
まず、デビュー前の亜弥ちゃんにテレビ出会う。 亜弥ちゃんと知らぬまま、しばし時間が過ぎた。 その後、デビューした後亜弥ちゃんに再会し、惹かれ始める。 それから約2年間所謂在宅系という存在であった。 しかし、大きなタイミングが訪れる。 もしこのタイミングを外していたら、在宅系ままかもしくはそれすらなくなったかもしれない。 地元に亜弥ちゃんが来るということで、大学の友達と見に行くこと。 その参戦がまさにターニングポイントだったのだ。 このとき、ヲタの門をくぐってしまったのかもしれない。 そう、ここではいう動悸は亜弥ちゃんが好きだった。 しかし、もし参戦するタイミングや環境を失っていたらヲタではなかったかもしれないのだ。 亜弥ちゃんが好きだという必然と参戦したという偶然。 この二つが揃わなければ、ヲタにはなりはしなかったのではと思う。 そして、これほどBerryz推しなったのもこの偶然と必然なのである。 環境は、亜弥ヲタやっていれば、ハローにも詳しくなるし、興味はある。 Berryzもそうだった。デビューの頃から存在と曲は知っていた。 また、桃ちゃんのこともBerryzの中では気になる存在であった。 そして、Berryzがデビューし、1年が経ったときまるごとソロコンサートがあった。 しかしながら、行こうとは思ったものの結局行かずに終わった。 もちろん、次のHigh Scoreも行こうとは考えるも行かなかった。 このとき足りなかったものは環境。 いっしょに行く人もいず、お金もなかった。今もなのだが。 しかし、偶然は再度起きる。 ジモティに軽く冗談でスイッチON!行かないかと言ったのだ。 そして、返ってきた答えは案外反応がよかった。 知っての通りあれから1周年を迎えたがBerryz紺に参戦したのだ。
つまり、ヲタになるということはいわば必然と偶然が合わさらなければ成りえない
いくら好きでも、ある程度壁を越えなければ成りえないと思う。
そう思って、改めて人生のおもしろさを感じている。
もしあの時テレビ観てなければ、あの時行っていなければ人生は変わっていたのだろうか?
もしくは、遠回りしてもこの場所にいるのだろうか・・・
これだけは確かめることができないのが残念である。
人生はたった一度。時は戻らないし、止まらない。
この過ぎ行く時の中を生きるしかない。
必然と偶然が錯綜するこの空間の中で
次はどんな門をくぐるのだろうか・・・
この過ぎ行く時の中を生きるしかない。
必然と偶然が錯綜するこの空間の中で
次はどんな門をくぐるのだろうか・・・