今日は年間第13主日でした。

今日のお話は、
見返りを求めないで受け入れ与えることと、

自分の十字架から逃げないで担うことについて
でした。

第一朗読で、列王記4:8-11,14-16aが読まれました。

エリシャとシュネムの婦人のお話です。

エリシャは預言者でした。
シュネムに行ったところ、そこの婦人は
預言者エリシャに食事や寝台などを準備して、
喜んで迎え入れて特別にしてくれました。

彼女は彼が神に仕える預言者であることを、
喜んで受け容れました。

婦人には子供がいなく、

当時それは、社会的な恥とされていて、
婦人にとっては苦しみでした。

婦人は、エリシャに対して、
なにか報いがもらえる、
願いを叶えてもらえる、と
計算して迎え入れたわけではありません。

自分が与えられる為にしたたかに計算をして、
迎え入たわけではないです。

純粋にエリシャの為に迎え入れました。 

その報いとして、
子供を授かる預言を受けました。


この列王記の部分は、
今日の福音朗読マタイ10:37-42につながっています。



そして、第二朗読です。

報いとはなにか、

キリスト者は洗礼を受けました。
キリストを受け入れました。

洗礼を受けたことで、
報いとして新しい命を授かりました。

永遠の命です。

それがキリスト者の報いです。


そして、福音朗読です。

マタイ10:37-42

私達はそれぞれ、自分の十字架があります。

人によりそれは、
大きな十字架の人もいれば、
小さな十字架の人もいるでしょう。

自分の命を得ようと、
その十字架から逃げないで、
勇気を持って、担っていきましょう。

私達が十字架を担えるよう、
わたしは祈りたいと思います…(神父様より)


というお話でした。


今日のお話を聞いて、

福音朗読のマタイ10:39に
自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしの為に命を失うものは、かえってそれを得るのである

とあるけど、

今日のお話はそこに要約されるなぁ、
と思いました。

自分の命を大事にして、自分の十字架から逃げたら、なにもないけど、

勇気を出して担うことで、
そこには神様からの報いがあるのだと思いました。

報いを目当てに担うのは、
計算が働くので、
動機が違うけど、

イエスが私達の為に
十字架を担ってくれたのだから、

わたしも勇気を持って、逃げないで、
十字架を担える者にならなければ、と思いました。

そして、列王記のシュネムの婦人は、
自分が社会的に周りから恥とされ
苦しんでいたにもかかわらず、

自分だけのことでいっぱいにならずに、
気にしたり、気後れしないで、
迎え入れていて、

ただ迎え入れるだけでなく、
いろいろ与えてあげていて、すごいな、
と思いました。

あと、列王記と、マタイの部分が内容的に繋がっていることに、驚きました。

聖書はこんな風に、旧約と新約が繋がっているところもあって、

そんな繋がりを発見できるのも、
ミサの醍醐味だなぁ、と感じます。


また次回のミサも楽しみにしたいと思います。