http://taka.no.coocan.jp/a5/cgi-bin/dfrontpage/FUDEMAKASE1.htm#%E6%AD%B3%E6%99%82%E8%A8%98%E6%9C%9D%E6%97%A5   より

【歳時記 に無季の部新設 現代俳句協会の試みに注目】

現代俳句協会が今秋、創立五十周年を迎える。その記念事業で注目さ れるのが来年出版される歳時記。季節感として太陽暦を採用した、はじ めての歳時記という。 
 雑誌「俳壇」八月号で、俳人の原裕氏は「無季の項を設けて、いわゆ る現代俳句アンソロジー」になるようだと指摘している。歳時記に無季 の部を設けることは、同協会の金子兜太会長が熱心で、すでに二冊の歳 時記で試みている。今度は協会自体も乗り出すわけだ。 
 連歌俳諧以来、季語は万象を包まんばかりの勢いで増え続けてきた。 
江戸時代初期には季語ではなかった「もちつく」「梅干し」などもいま では季語とされている。 
 原氏は、現代の俳句歳時記編集に、「今日の生活風土(都会生活) を主題としたものに季語の整理」をすることを求めている。実作者から 見て、農耕社会の季語が多い歳時記は現代の生活に追いついていない。 
 一方、無季俳句で現代を詠もうという立場もある。金子・黒田杏子・ 夏石番矢編『現代歳時記』には雑の部があり、ここに無季の言葉(題) が集められている。 
明治以降、無季俳句の運動は何度も繰り返されては衰えた。いまは無季 俳句が噴出するといった情勢ではないが、コピーが文化となり、川柳と の境は明確でなく、無季句OKの新俳句が大量の投句を集めている。 
 季語を使って俳句を作る面白さには、制約を課されながら目的を果た す喜びがある。従来の無季排句は自由だから、そういう楽しさは薄いに 違いない。ところが、無季の言葉が歳時記に載り、その本意本情で句を 作ることになれば、それは「かせ」になる。案外、受けるかもしれない。 
 気がかりなのは、歳時記に無季の言葉を支える秩序が見えないこと だ。極端な例だが、「日本地名」という題の傍題に、埼玉とか浦和とか の地名が並び、その例句はない。名所というわけでもあるまい。著者に はわかっている選択の必然性が見えてこない。やはり無季の題が人々の 共感を呼ぶには、多くの秀句の支えの力が必要ではないか。 
 作品の裏打ちがなけれは、無季の部は季語以上に安易に増加し、イメ ージ喚起力は薄まり、ついには空中分解して果てると心配する。現代俳 句協会の無季の部のなりゆきを注目したい。