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「俳句」、「世界俳句」、「漢語/漢字俳句」 吳昭新(瞈望、オーボー真悟)、Chiau-Shin NGO

事実上、決して私だけが「漢俳」は「俳句」のジャンルに入らないと言うのではありません。中国においても既に1995年に朱実、1949年台湾師範大学四六事件で、国民政府の逮捕から逃れるために中国に逃げた台湾出身の学者(前岐阜経済大学教授/上海俳句漢俳研究交流協会会長)、が同じ認識を提出しているし、日本の漢詩人中山逍雀も「漢俳」と「俳句」の本質上の異なりを指摘しておるが、彼の同僚今田述が返って「国際俳句交流協会」の《世界の俳句状況》の中の中国篇の中で再三にわたって「漢俳」の発展状況を紹介しいるのは了解できるが、2011年だけでも四回、しかし、極力「漢俳」即ち「俳句」と喧伝しているのは「漢俳」即ち「漢語俳句」ということを意味し、とても理解に苦しみます。
     「漢俳」は確かに最近三十年来中国で盛んになった新型中国詩詞であり、簡易にして古体詩の如き繁雑なる制約がなく自由に発揮でき得るため、この情報にあふれ、知識が広範繁雑な現代社会において一般大衆に歓迎受け入れられたのは当然であり、また学習推薦に値します、しかし名称上「俳」の一時があるからと言ってそれを俳句とみなし、無理に「漢俳」をして俳句とみなすならば、西洋語系の「HAIKU」はもっと俳句の本質に何倍も近いものであります。そして、もしある日誰かが実質的な「漢語俳句」を詠んだ時はどう対処するのですか、その実所謂の「漢俳」を吟詠する中国詩人が翻訳した日本の俳句の中には正真正銘の「漢語俳句」に属する佳作もあります、さすればまた如何にしてこれ等の佳作を位置付けるか?今田氏が慎重に処理するのを望むものであります。率直に言えば中山氏が創作した漢詩の「曄歌」は「漢俳」よりももっと「漢語俳句」に近い、実際上私は既に《世界俳句協会2011》年刊で今田氏と中山氏の所属する「葛飾詩社」の同人たちが詠んだ「曄歌」を六、七首見ました。俗語に曰く「鈴を解くのは掛けた人だと」、今田氏が如何なる処置を取るだろうか?
        最近、私は東京で日本に十年留学し、日本古代詩歌を研究し、文学博士号を獲った金中氏(現中国陝西交通大學外國語學院日本文学教授)に出会いました。彼による「一語一句」の日本俳句の漢訳の提案も「漢語俳句」に適切な一つの形式であるべきであります。彼は子供の頃から(三歳)唐詩の天才児童と言われていました。彼の一語一句様式は全漢字字数が七~十字で、リズム、情報量、詩法もみな俳句の本質に適合し、過去の多くの翻訳者が勝手に付加した冗語などもなく、俳句の余白も残しおり、過去の多くの翻訳例と比較評論しています、彼の主張は黄霊芝氏と小生の意見とマッチしているのです。
       2012年の2月9日に石倉氏のブログで「漢俳は錦上添花の俳句かな 」という名句を見つけました、確かに的を射た「俳柳」だ、漢俳は「錦上添花」のみだけでなく「画蛇添足」の俳句であります、さすがは漢詩作品三万首の漢詩人であります。
      私が日本俳句を詠む時、私は時機、環境条件によって無季、自由律、定型、有季など異なる形式を選びます、そしてこの態度は漢語俳句の時も同じです。
   「漢俳」はすでに中日双方で既に共同で認定された定義があり、それにまた既に多くの佳作があり、多くの人々から愛されているゆえ短小なる「新型三行中国詩詞」として推薦されるべきであります。しかし日本俳句に起源する世界俳句の一員としての漢語俳句には私は十字を基本とし、前後二三字の増減を許容する漢語俳句を推薦したいのです。十七字漢語俳句は俳句として、内容量、情報量とも多すぎて、俳句の本質に違反する冗語/詞を加えなければならないゆえ。
      中国には既に多くの有名な漢俳作家がいる、そしてその作品も多く日本に紹介されている。例えば林林、林岫、李芒、鄭民欽、曉帆、趙樸初ら、かれらは多くの俳句を漢俳に翻訳している、しかし翻訳された日本俳句の漢俳の中には俳句の特質を持つ「漢語俳句」もある、これ等は「漢俳」の定義とは違う正真正銘の「漢語俳句」であります。
      さて、その命名が問題になります。「漢字俳句」、「中俳」、「漢語haiku」、「Mandarin haiku」、「漢普俳」……とか。ひょっとしたら「漢普俳」が一番手ごろかと思いますが、最後に落ち着くところは……。


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      最後に私の漢語または漢字で詠まれる「漢語俳句」、「漢字俳句」に関する結論を纏めて見ます。
      まず、「俳句」とは言葉によって表現しうる最短に近い「詩」である。とします。その内容・本質は、江戸時代の「俳諧」の本質に基づいて子規の規定する「俳句」の定型を基準とします。ただし、
● 世界各領域の言葉での俳句は、各言葉に於ける最短にして適切なる音節数による短詩であり、人生に於ける全ての瞬間的感動の詩情―自然の写生‧人事‧倫理‧論理‧哲学を問わず、又主観、客観を問わない―を余白を残して詠む詩であると認識する。(虚子の客観写生説は諸家による誤解との説も全く無根拠とは思われぬゆえ、採択の可否は詠む人に残すものとする。) 


● 漢字または漢語で詠まれる「俳句」をまとめて「漢字俳句」または「漢語俳句」と呼ぶ。即ち「漢字」と「漢語」に、上述の「漢字」と「漢語」に区別される両方の意味を持たせる。


●「漢字/漢語俳句」は、できるだけ少ない漢字で、各地域の言葉(字形、語彙、発音)によって詠むものとし、人生の全ての感動、即ち自然‧愛情‧情理‧人事‧論理‧倫理‧哲学などの主観的瞬間や客観写生の感動を、「読み」‧「鑑賞」の余白を残して詠むものとする。


・「漢字/漢語俳句」は、日本の「伝統俳句」が定義する「客観写生」に限定されるものではない。


・日本語俳句における季語は「漢字/漢語俳句」では必須のものとはしない。


・字数は暫時十字を基準とし、韻律(リズム)宜しければ、前後二、三字の字余り、字足らずを許容し、中国詩詞における押韻、平仄の有無を問わず、口語、文語の双方または混用を受け入れて詠むことを許容する。


●「漢字/漢語俳句」は漢字の使用を共有するが、漢字/漢語を使う広い文化圏の各地域の言葉の違いによって、発音、意味、語法または字形を異にし、各言葉ごとの個有性があることを深く認識する。それゆえ、その各言語ごとの「俳句」は、それぞれ個有に命名される必要がある。