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「俳句」、「世界俳句」、「漢語/漢字俳句」 吳昭新(瞈望、オーボー真悟)、Chiau-Shin NGO

「漢語/漢字」に内在する多様性を克服して「俳句」であるにはどうすればよいのでしょうか。その多様性、だからこそ、俳句の真の意味または真髄として、短い、瞬間の感動、と言うことを忘れてはいけない、と思います。いかにすれば瞬間の感動を適切な最短の音節で表せるか、その最短の音節数はいくつであるか、それを模索しなくてはなりません。


それが、「漢語俳句」の字数になるわけです。私にはそれが、今のところは十字、というように思えます。そして、その十字を次に、三四三、三七、五五、七三のいずれとするかは、今はまだ検討中です。多分結論は、三四三、三七、五五、七三、どれでもいい、ということになるでしょう。そして、十字というのは基準であって、前後二、三字の字余り又は字足らずを許すものであります。


漢語俳句は詩である以上、リズム(律動)のあるのが最高です。そして、前述の三四三、三七、五五、七三のどれにするかは、その句その句のリズムによって決まるのです。とくに漢語の読音は一字一字声調があり、また、地域の言葉により読音も声調も違います。それにともない、リズムも違ってきます。そして、自由律と言う場合、字数に制限がありません、それは自由詩であって、俳句ではありません、適切なる最短の詩、と言う俳句の核心に合わないからだと思います。


字数だけに縛られると言うのは?という方もございますが、秋元不死男氏の、ある程度定形に縛られると言うことが俳句の俳句たる由縁、という説明も理解できます。秋元氏も俳句の定形はもともと文語を基にして決められたもので、口語で俳句を詠む場合、すこし窮屈であると言っておりますが……。


結論として、俳句と漢詩、詞は、詩のジャンルにおいて異なる詩形であることは明白です。そこで、いま流行の漢俳は、本質的に俳句とは言えません。ですが、正真正銘の新しい中国の短詩型詩詞の一つです。


私は、日本語でも俳句を作りますが、日本語の俳句が台湾で育ちゆく希望が薄いなか(絶対に不可能とはいいませんが)、真の漢語俳句(今の漢俳ではありません)の一員として、または世界の俳句の一員として、普通話と台湾語と客家語、……で詠まれる俳句(普通話俳句、台湾語俳句、客語俳句、……)を模索中です。もしそれに成功すれば、拙文中の「湾俳/台俳」、「粵俳/広東俳」、「客俳」、「滬俳/上海俳」、それから漢字文化圏内における各地言語の俳句が、生まれてくるはずです。私の目指す「漢語俳句」は、日本俳句の形式だけを模範、模倣するのではなく、日本俳句の真髄、本質を汲む世界俳句の一つたる「漢語俳句」、その下にある漢語系各言語による俳句、「普通話俳句」、「台湾語俳句」、「広東語俳句」、「客家語俳句」……を目指しているのです。普通話、台湾語、広東語、上海語……みな同じレベルにあって上下主従があるものではありません、で決して今の「漢俳」ではありません。


ネット上の「湾俳」、純粋の台湾語で読まれた俳句、を探したところ、惜しむらくは見つかりませんでした、いわゆる「普通話」の語彙をそっくりそのまま湾俳に使っているのを多く見かけますが、それは外国人の一寸した勘ちがいから来たものです。もとを正すなら、おそらく台湾の俳人黄霊芝氏が「湾俳」は七字から十二字までが適当だと主張したためではないか、と思います。


黄氏に間違いはありません、彼は俳句の真髄本質をよく理解している日本俳句の達人であるがゆえに、漢字で詠む漢語俳句は漢俳の十七字では意味量が余り多すぎ、七字から十二字までの長さがよいと湾俳で勧めたのです。しかし、その趣旨がとり違えられ、七字から十二字までの漢字俳句は「湾俳」、十七字の「漢俳」と対照する俳句として勘違いされたものと思われます。漢語圏内では漢字の表わす意味はみな同じで発音が違うだけだと思われているからです。


実際は違うのです。例えば、日本語の「床(ゆか)」は、中国語では「地上」、台湾語では「土脚/足+交」と言います。文語で詠んだ場合は漢字文化圏内では一応相通じる場合が多いのですが、口語では意味が全く異なってしまう場合が多いのです。なお、日本語と漢語の文語の間でも意味が全然違う事が少なくありません、往々にして大きな誤解を招くことさえあります。もう一つの誤解は黄氏の「湾俳」の「湾」の字の意味から来たものです。黄氏が言わんとしているのは「台湾地区」の意味で台湾という所、場所で詠まれた俳句を指していうのであって、それゆえ各種の言語を含んでもかまわないという意味であり、いまよく論争の的になっている「台湾文学」とは何語で書かれた文学をいうのかと同じ類の論争問題であります。
      また、台湾語の声調は、七声で普通話の四声より三声多く、そのうえ会話、読書、詩吟で発音する場合、前の字の声調が必ず変わります、そのため外国人が聞いた場合、音楽のように聞き取れます。そして、その反面、台湾語で歌う歌は、歌詞を聞き分けられず、字幕を必要とします。
   「湾俳」に関してまた別に私をして気のめいる事実があるのです。現在台湾の大部分の人達は正当な純粋そのものの台湾語が話せないのです、その結果は中国の普通語の語彙を台湾語の語彙としてチャンポンに混ぜて使っているのです。私自身がよく経験することですが、若い人たちが使う台湾語の語彙には当然台湾語もあるのですが、また普通語もあるのです、正直のところ明らかに台湾語の語彙があるのに彼らは知らないのか普通語を使っているのです、そしてまた日本語も混ざっていることがあるのです、まさしく現在の若い台湾人の言語使用の実情なのです。こういう状況は小説を書く時か、台湾の実況を反映する時はかまわないし、あるいは特別の意味があり、特にこれを引用する時は是非もないしその必要もあるが、もしただ自分が台湾語を知らないか、または真面目に覚えようとしないでこんな結果になったのならば許せないことです,その上これ等の若い台湾人は、己が自分の母語知らないのを恥ずかしいとも思わないばかりでなく、外国人のまえで得意げに曝け出しているのは、まさしく悲哀の極みであります。これは台湾の若い者たちが自分の母語を習おうとしないための結果であるのです。わたくしは寂しくまた悲しい思いで胸がいっぱいになりました、身内のものが自分の意見を固持しお互いに惨殺し合っている内に母語は消滅しつつあるのです。そしてはっきりさせなければならないのは、「湾俳」にはふたつの意味があると、ひとつは地域を指し、もう一つは言語を指すと。私が俳句のうえで「湾俳」を言うとき、それは言語上の意味であり、地域を指すものではありません。       日本の漢詩及び俳句の詩人俳人の方々、日本人が編み出した十字左右の「曄歌」を試してください、そして俳句の詩法を考慮にいれて、さすれば十七漢字の中国の「漢俳」短詩でなく、十字前後の漢字の正真正銘の「漢語俳句」が詠めるはず。当然の事ながら季語や客観写生の規制を考慮にいれる必要はありませんが、入れても結構です。