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「俳句」、「世界俳句」、「漢語/漢字俳句」 吳昭新(瞈望、オーボー真悟)、Chiau-Shin NGO

所謂「世界俳句」とは、各種の言語を使って、上述の要件に即して詠まれた短詩である。


外国人が日本に源を発する俳句の本質は?と問うとき、日本の俳人の答えはいつも「俳句」=「伝統俳句」を以ってし、「季語」のない、また「客観写生」でない俳句は俳句であるとは認めません。この二つの条件は外国人にとっては理解に苦しむもので、必須の条件とは認めません。そして今では日本においても同じ考え方を持つ人が少なくありません。


事実は、芭蕉以降、「俳句」の名付け親の子規及びその弟子たち、昭和初期、二次大戦中の新興俳句の作者、戦後の昭和後期、現在平成年代の多くの俳人たちが少なくない「非定型」、「無季」また「客観写生」でなく「人情義理」を詠んだ名句、秀句を残しており、ましてや「客観写生」を提唱した虚子までが所謂の「客観写生」は俳句を一般庶民に広めるための方便の策略で、その本心,本意ではないと市井に言われています。この言分の信憑性は彼が「第二芸術論」の論戦の四年後残したかの有名な論理の一句:「去年今年貫く棒の如きもの」で証明されます。市井で「伝統俳句」を抱擁する俳句の師匠、主宰たちよ、本当に俳句の本質を了解しいるのだろうか?


「和歌」でなくまた「連歌」でもなく「俳句」が世界に受け入れられたのには必ずその理由がある筈。私は多くの俳句の師匠たちが知らず知らずの内に,子規後の名の知れた俳人のように、多くの無季あるいは論理の名句、秀句を詠んでいる筈だと信じています。


俳句は本質上水墨画の余白を残すべきであり、また鈴木大拙の言う禅の思考も必要があるかと思います。正直のところこの二つの要素が俳句をして世界中に広まらせた重要な原因ではないでしょうか?視覚の感動は確かに哲学の思考まで飛躍します、ではその他の感覚感動ではだめでしょうか?吟じて余白を残す、読者に彼らのみが自己の経験から得ることしか出来ない感動に符合する自己の感動に陶酔する、これまさに一石二鳥、いや三鳥、五鳥、ないし百鳥など異なる感動ではなでしょうか?吟ずる者の感動と読者の感動は必ずしも同じではない、これで良いのじゃないのではありませんか?


人にはそれぞれ異なる人生経験がある、ある人が経験したことと同じ経験を他人がするとは限らない、だからある人が詠んだ俳句を他人が理解出来るとは限らない。ことに特殊感覚を有する人あるいは特別の経験を有する人の感動は、他人には理解できないものである。それゆえ確かな根拠がない限り、他人の俳句や詩詞を批評してはならないとともに、他人の批評、師匠の批評あるいはその添削までも、基本の事項以外は気にすることはないとおもいます。


よくある事ですが、俳句歴三、四十年の方が、ただ句会での得点数が低いと言うだけのことで萎れかえっているのを見るが、私はそんな必要はないと思う。例えばテレビの俳句番組で主宰が違えば選句の方法や根拠着眼点も違う、ある主宰が選ぶ秀句を別の主宰はそうとは思わない、正直で率直な主宰は言うのだ、ある主宰は私が選ぶこの句は選ばないだろうと。


台湾で日本語俳句会を維持して、ある程度規模があるのはただ黄霊芝氏の「台北俳句会」のみであり、去年四十周年を迎えました、その他にも二、三規模の小さい集まりあるいは日本の俳句会の分会みたいなのがあります。黄氏ご本人は芸術、文学の天才であるのは言うに及ばず、その五十余年の日本語俳句の才識でもって毎月門下の弟子たちの作品に対する詳細を極めた批評と修飾は当然一般の師匠たちの及ぶところにあらず、弟子たちも得る所少なからずと言うべきです。黄氏は伝統俳句派で、その句評の拠りどころは当然伝統派そのものである。しかし彼は結社の優欠点を良く知っており、弟子たちの人間性、習性もよく了解しており、例えば弟子の中で結社の発行物上の姓名の序列に関して俳歴の順序にとの意見があった場合、かれは表向きには目立たない適宜な調整をしている。また最近ある日本人会の会誌が毎月俳句を十句を推薦するよう要求があったとき、彼は弟子たちに疑問を提出した:「1.誰が選句するのか?2.どの句を選ぶか?と。と言うのは1.と2.によって問題が発生するのだ。選句する人が違うことによって、選ぶ句も違う、選者には選者個人の主張があるゆえ、同一人が選んだ場合選句の作者は限られた幾人かになる、それゆえ外の人から見れば台北俳句会はこれぐらいの人数しかいないと思われる可能性がある、もし『高点句』を選んだ場合、『高点句』はただその句の人気があるのみを意味し、決して良い句を代表してはいない、さすればその会誌の人達は台北俳句会の会員の程度はこれ位ものかと早合点ししまう可能性がある、たとえば選ばれた大統領からその国の国民の水準がわかるのと同じことだと」、黄氏が提出した疑問から、黄氏は文学、芸術の天才があるのみでなくよく社会一般、結社、人間性を熟知していることを知る。私も若い人たちや、初学者にあまり何人の会員が自分の句を選んだか気にする必要はないと、あなたの句が「曲高和寡」だからかもしれないという。初めて句会に参加する人は自信があるときは気がひける必要はない、ゆっくり他人の句を観察すればだんだんと句の良し悪しが分かってきて、自然と良い句が詠める様になると。俳歴が長いと言うても必ずしも良い句が作れるとは限らない、永遠に「食古不化」で起点に立っているのを自分で感じないのがよくあるのだと。


「俳句の瞬間」、「瞬間的感動」これ等を最短の音節で表現するのが俳句の本質であり、「有季」に固執するより大事である。「有季」の本来の目的は短い季語でもって多くの意味を含蓄するにある、それゆえもし季語と同じ効能の代わりになるキーワード(keyword)がある時は、季語の必要はなくなり得るものであるが、しかしあっても少しも邪魔にはならない、しかも一種の特殊状況(類型)の俳句である。また石倉氏が言うように、もし世界俳句の発展に貢献したのが芭蕉、蕪村、一茶ら各人の個性であり絶対に俳句の季語や五七五でない時は、なおさら季語や五七五を堅持する必要があるであろうか、考慮に値するものである。


世界の俳人はお互いの異質の中に同質性を求めている、そうしてある同質の要素を探し当てた、ゆえに全世界において俳句にたいして手放しえない感情を産生したのである。これと相対するに日本の俳人たちは人をして結社の中に蹲って、永遠に同じ言葉を弄ぶ遊戯に耽っているとしか思われない。


以上、俳句に関しての現況と疑問点を提出した。これ等の問題を解決しない限り、日本の俳句は永遠に現時点に留まり、世界の俳句も原点で足踏みをするばかりのみである。既に皆が世界中で、同じくない各言語で俳句を吟詠しいるからには、そこに何か同質性がある筈、もう既存の俳句の定義に縛られずに、我々が一緒に共同して俳句の本質から、またその各言語から受け入れられた事実の由縁より世界俳句の定義を探し出そうではないか。


俳句は日本に起源している、俳句の本質について日本人は積極的に探求する責任があるとともに、それを大事にしなくてはならない。