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「俳句」、「世界俳句」、「漢語/漢字俳句」 吳昭新(瞈望、オーボー真悟)、Chiau-Shin NGO

音楽性という以上、リズム、押韻、耳に楽しい、口ずさみ易い等いろいろ問題があります。日本語は平板で、音音の長さが等しい即ち等時性言語であり、中国語にある「韻律」や「声調」がなく、また西洋語にあるアクセントのリズムがありません。その上、日本語のリズムの数え方は音韻学上西洋諸国の音節(syllable)とは少し違って、拍(短音節;モーラ;mora)で表わします。モーラとシラブルは似ていますが同じでなく、拍で数えるのです。日本語の仮名音一つで一拍、そして五と七拍を以って最も語呂がよく、耳を楽しませる拍となります、これは丁度唐詩の五言、七言の音節とリズムが一致します、七はまた三と四拍に分けられます、それで俳句は「五七五」十七拍、短歌は「五七五七七」三十一拍を以ってその基本リズムとするのが理解できます。ほかに日本語では促音、長音がありこれ等は二拍と数えます、まだ拗音がありこれは一拍で,「撥音」(syllabic nasal)は一拍と数えます、それゆえ日本語は音節でなく、拍(mora; モーラ;短音節)に準ずるのが妥当で、そこで初めて口ずさみ易く、耳に楽しい日本語のリズムに近づき得るのです。その上日本と中国の詩歌には、それぞれの句または詩そのものに独特の韻律-「内在律」があるゆえ、あまり外在律に拘る必要がありません。


その実、私は「俳句」であろうが、中国の「詩詞」あろうが、読んで詰屈聱牙でない限り、それ自身の内在律がある以上、音楽性があるものであると思います、そして押韻、対応があれば尚更のこと、「過度の複雑」なる平仄の規制は一般大衆を門外払いする可能性のおそれがあると思います。「平仄」を区別することは漢語を母語とする人達にとっては大して困難なことではありませんが、あまりにも複雑な「平仄」の規制は簡単な「詰屈聱牙でなくすらすら読み易い」ことに比べればどれだけの音楽性があるものか少し疑問に思います。


上述の伝統俳句に関する三つの制約については、五七五定型は音楽性リズムの問題であり、外国語にあってはその音楽性が日本語の音楽性と完全に一致するとは限らず、各言語には必ず各言語の耳を楽しませるリズムや音楽性があるものであり、各言語の耳を楽しませるリズムや音楽性に合えばそれで良いのです。


「季語」に関しては、既に多くの文献で討論されており、日本の最北端の北海道から九州の鹿児島、さらに沖縄列島に至っては、その気候と動植物の種類習性の異なることはいまさら言うに及ばず、だからと言って日本の標準語を統一したときに倣って、むりに東京に適する季語を標準とする規定を決めることも不可能である。まして、世界各地の気候は全く異なり、寒帯、温帯、亜熱帯、熱帯地区の気候、大自然現象、事物、皆徹底的に違うものにして、伝統の制約をそのまま受け入れることは不可能であります。「季語」は元々「俳句」の先祖の「連句」の「発句」の挨拶語でありました。日本人は出会った場合或いは手紙の始に必ずと言って良いほど季節の挨拶から始めます、これは日本人の民族習慣ですが、同じ挨拶語でも英語では違って「How do you do?」、「How are you?」となり、中国では「你好?」(ご機嫌いかが?)、そしてこの「你好?」も新時代の造語であり、一昔前まではありませんでした、台湾では「吃飽未?」(食事は済みましたか?)が日常出会った時の挨拶の言葉です。それゆえ日本の俳句で季語を必要とすることは理解できますが、外国人においては、生活習慣が違い、理解或いは会得するのに困難を感じます、しかし地方性の季語もその存在性の当然性または必要性があるゆえ、その地方に限って会得享受するのも受け入れられることです。


「切れ」は文章の段落を示し、日本語語法の表示法である。各言語には各言語の文章の段落を表わす方法があります、ゆえにそれぞれの各言語の文章の段落を示す方法を使えば良いのであるから問題にはならないでしょう。


《季題中心主義》、《客観写生》、《花鳥諷詠》などの束縛にいたってはある一人の人による主張或いは制約であるゆえ、これによって「俳句」全体の発展に制限を加えることは出来ず、いかなる事或いは物には創始と発展があるのと同様にある一人の主張によっていかなること、物の発展を制限または阻止することは出来ません、それは小さな範囲に局限する内輪の規定であり、同じように「俳句」のいかなる制限もそれはある派別の内の発展に限られ、やはり内輪の規定の一つであり、ゆえにそれを以って「俳句」全体の発展を制限することは出来ません。


「余韻」、「余白」は「俳句」の特性の一つであり、特に「余白」はそうである。「俳句」はこれ以上短くすることが出来ない短い詩である、そして十七音の中で詩情の全体を完全に読み終える事は出来ない、ゆえに余白を残して読者自身に想像させ完全にまで補わせる、これが俳句独特の特性であり、読者をして自己の経験及び詩情により各自ひたすらに自由に味わい享受することが出来る、それが「俳句」の詩情と鑑賞は人によりそれぞれ異なる由縁であります。これは他の詩型では見られない俳句の特性であり、俳句の俳句たる由縁でもあります。


我々は「伝統俳句」の制約規制も尊重します、といってそれで俳句界全体の発展を制限することは出来ません、で俳句の本質に符合する限り「俳句」であり、如何なる方式或いは言語を使ってもかまいません。それゆえ如何なる言語においても、最短で、それ以上凝縮することが出来ないまで短く、そして瞬間の感動を反応し、余白を残して読者をして随意に自己鑑賞でき、主観、客観、大自然を詠むか、人事、社会性の詩吟でもみな「俳句」であります。故に各言語には各言語の俳句形式があり、例えば日本の「五七五」、表音文字の「三行詩」、漢語の「漢語俳句」など。


ここ百年来の日本の俳句史の変遷を見るに、最も主要の「定型、有季」の二項目中、五七五は自由律に向って発展したが、しかし俳句はつまるところ詩の一種であるゆえ、そして定型は詩歌リズムの最も基本なる項目であり、その上五七五調はまた日本語の最も耳を楽しませてくれる語調リズムであるゆえ,例え自由律方向に発展するとも、まだずっと保持できて改変することがありませんでした。季語に至っては俳句創始の特殊基本要項であるが、決して絶対に無くてはならないものではなく、それゆえ無季でもかまわないという思惟もあります。別に俳句と川柳を一つにあわせて「俳柳」或いは「柳俳」、あるいはもっとはっきりと「五七五定型」に向う傾向もあります。


で、漢俳に関しましては、私は前に「漢俳」は「俳句」ではないと申し上げました、その理由は、ただ日本伝統俳句の五七五定型に合わせるために、日本語と漢語の一音節に含まれる情報量が全く違うことを考慮せず、終には俳句の短小なる事をおろそかにし、凝縮が足りなくなり、結果としては一種の新型の詩詞(中国詩)としか言えず、現代中国詩詞の一種であり、その理由は後述します。


以上の考えを総括しますと、「俳句」は各種言語での最短にしてこれ以上凝縮出来ない、そして余白を読者に残して自己鑑賞させる詩であり、如何なる言語を使用しても吟詠でき、そして各言語はそれぞれの独特の句型を有する:「三行詩」、「漢語俳句」など。その内容については主観客観、自然写生、社会人事、論理、倫理など人類生活に出会う一切の事物人情であると。


「俳句」と言う名詞は日本語俳句に残して尊重を表わし、且つ「伝統」、「無季」、「自由律」、「社会性」、「人間探求性」、「俳柳」など異なる形式を一纏めに皆ひっくるめて包括し、そして「伝統俳句」はもっぱら虚子の三制約を守る俳句に残し、「俳句」項目の下の層の次項目であり、「無季」、「自由律」、「人間探求性」、「俳柳」と同じレベルのクラスに属するのです。


つづいて、俳句の日本国内での詳細及びその発展の状況についてお話させて頂きます、それでもっと俳句に関して理解を深める事が出きる筈です。


では、先ず日本俳句界の状況について見てみましょう。日本の現在の俳句人口はどうかと問われますと、ある人は一千万と言い、ある者は百万と答えます、元々正式の統計はございませんが、一般大衆に俳句が流行っているのは否めません。その昔、俳句はリタイアした人達あるいは老人の暇つぶしの行為と見られていました、しかしここ数十年来、老若男女を問わず皆俳句をやっています。社会の至る所に俳句集会や団体があり、小学、中学、高等学校にも、みな俳句のクラスがあり、いつもコンテストが行われており、このほかにも、ここ数年来情報技術(IT)の普遍化によりインタネット俳句会などのアクティビテイも新しく興りました。