http://oobooshingo.blogspot.com/2012/03/blog-post.html

「俳句」、「世界俳句」、「漢語/漢字俳句」 吳昭新(瞈望、オーボー真悟)、Chiau-Shin NGO

(四)語彙の説明:

1.「客観写生」とは?


‧虚子が唱える俳句作りの約束で、吟ずる対照内容は自然事物の描写であること、即ち「写生」、単純で叙景である、かつ叙述は客観で主観感情を避けること。


2. 「花鳥諷詠」とは?

‧ 虚子は先に「客観写生」を提唱し、後にまた「花鳥諷詠」を唱え、即ち「花鳥風月」の自然の四季の変化を吟詠することである。花鳥風月は自然景物を代表し,同時に写生時に起きる人事の問題も含めて吟詠の内に入れてかまわないと言うことである、なんだか上手く客観写生の狭い範囲の拘束から逃げられたようである。中国語にも「風花雪月」と言う一句がある、日本の花鳥風月に相当する一句である、ただし中国語の「風花雪月」には男女間の私情の意味を含んでいるが、日本語の花鳥風月には男女間の私情の意味はない。花鳥諷詠は客観写生において客観の景色を吟詠するなかに主観感情に関する人事問題も吟詠するのを許すことである。

3. 後人の見方:


‧ 後日ある人たちは虚子の作品や記録などを深く研究した後、虚子は別に主観的吟詠には反対などしていないという結論に達した。虚子の真意は一般の人達にとって深みある主観的な事物の訴えはそうた易いことではない、それゆえこの「客観写生」の約束は一般大衆のための約束であり、決して主観意識のある俳句を吟詠してはいけないという意味ではないと、皆虚子の真意を誤解しているのだと。事実上、虚子本人も少なくない主観事象を詠んだ句を残していると、そして他の人もそうであるゆえ、この説明は虚子の客観写生の主張に対する弁明であると。


4.非伝統俳句:


伝統俳句と相対する俳句を言う、即ち伝統俳句の約束に従わないで吟詠される俳句を言う。人生はいかんせん社会環境や変遷から逃げられないものである、それぞれの時代にはそれぞれの時代に特有の社会背景がある、それゆえにそれぞれの社会性の内容に沿った俳句が詠まれるのは当然であり、それぞれの名称で呼ばれている:「新傾向俳句」、「社會性俳句」、「前衛俳句」、「自由律俳句」、「無季俳句」、「新興俳句」、「普羅俳句」、「戦争俳句」、「人間探求派俳句」、「根源俳句」、「大眾化俳句」、「国際俳句」及び「世界俳句」など。


明治時代の後、正岡子規が「俳句」と言う言葉を創作し、「俳句」の内容を規制した後、今日(2011)まで百年余り、「俳句」の変遷及び発展に関しては現代俳句協会から出版された《日英対訳21世紀の俳句研究-2008》一書の中で木村聡雄氏が《現代日本俳句小史》で簡単明瞭そして総括的に纏め上げており、そのうえ日英対照であるゆえ、日本語を知らなくても、よく理解できるゆえご参考下さい。


下記に関係のある名称だけ、簡単に概要を紹介させていただきます。



‧ 1)「新傾向俳句」:


子規亡き後、その事業は二人の弟子により継承されました。新聞「日本」の俳句欄は河東碧梧桐、俳誌「ホトトギス」は高浜虚子により継承されました。二人は主張するところが違うので各々の道を進みました。碧梧桐は子規の俳句に対する考えをもっと発展させようと思い、もう一歩進んでただ情景を描写するだけでなく、脳裏に浮かんだ主観的な描写をも詠む,即ち「新傾向俳句」を提唱したのであります、そしてこの主張は瞬く間に日本中に伝わり、あまつさえ「新傾向にあらずんば俳句ではない」とまで謳われたのでありました、そしてついには明治時代末期の俳句の主流にもなったのです。彼は俳句は不断の伝統の改革により改進すものだと言う信念のもとに、子規の蒔いた種をもっと大きく育て上げようとしたのです。

‧ 2)「自由律俳句」:


「新傾向俳句」は大正時代(1912-1926)に入って分裂し「自由律俳句」が生まれました。一種の伝統俳句の五七五定型と季語などの制約から逃れて更なる自由な俳句精神を求める俳句革新であります。またどの一句の俳句にもその句自身がもつ韻律の内在律があるものだと主張しました。荻原井泉水(1884-1976)は始め新傾向運動に参加し、俳誌「層雲」を創刊しましたが、しかし1913年に新傾向運動をはなれ、その学んだ西洋詩の経験をもってして、俳句の季語及び定型の規制を破棄しようと企てて、「層雲」を拠点として、「自由律俳句」を始めました、その配下には種田山頭火(1882-1940),尾崎放哉(1885-1926)、栗林一石路(1894-1961)などがいました。片方、中塚一碧楼(1887-1946)は碧梧桐が創刊した「海紅」を引き継ぎ、口語自由律俳句を提唱しました。「新傾向運動」は「自由律運動」を経て、とくに山頭火や放哉などの俗世を捨て放浪生活を吟詠する詩人と結び、一時栄えました。1980年代において住宅謙信(1961-1987)が活躍したが、惜しむらくは早死にしました、でも今日に至っても尚多くの読者がいます。

‧ 3)「新興俳句」:


昭和初期、虚子が丁度俳句の定義を「花鳥諷詠」に限定しようとしていた頃、それに対して俳句を普遍的精神を吟詠しようとする現代詩的俳句革新運動が現れました、かつイロニーなのはこの運動が「ホトトギス」内部からの反動だったのです、そして間もなく「新興俳句」の新潮流に発展していきました。


元来虚子派に属していた水原秋桜子(1892-1981)はその作品がだんだん抒情、主観写生に傾き、虚子の「客観写生、花鳥諷詠」と対立すようになりました。秋桜子が主宰する俳誌「馬酔木」(1922年創刊)は元々「ホトトギス」派の俳誌だったのですが、秋桜子は誌上で忠実に客観写生を遵守する同僚の高野素十を酷評するに至りました。秋桜子は1931年「ホトトギス」を脱退し、ここに至ってついに反伝統主義運動の「新興俳句」が産生したのでありました。「馬酔木」は「ホトトギス」から離脱し、主観的表現への道に向いました。「馬醉木」俳誌の下に集まった俳人には山口誓子(1901-1994)、石田波郷(1905-1969)、加藤秋邨(1905-1993)と高屋窓秋(1910-1999)らがいました。

‧ 4)「無季俳句」:


「新興俳句」が盛んなりし頃、制約から抜ける自由な考えが台頭し始めました、前述の「自由律」の外に「季語」にも注意がむけられました、そして伝統的定型を維持する一面、また季語の放棄を求めました。俳誌「天の川」は吉岡禅寺洞によって1918年に創刊され、また「ホトトギス」傘下の俳誌であったが、1935年から「無季俳句」を提唱し、秋桜子の反伝統運動の力添えになりました。「天の川」で作品を発表した俳人には横山白虹(1899-1983)、篠原鳳作(1905-1936)などがいて、「馬酔木」の人達とともに「新興俳句」運動の拠点となりました。「旗艦」の主宰日野草城(1909-1956)はやはり「ホトトギス」の出身であったが、現代文学の自由主題を追求するため、先頭に立って「無季俳句」を提唱し、富沢赤黄男(1902-1962)もまた超季節感の俳句を追求しました。「旗艦」にはこの二人の外に西東三鬼(1900-1962)、神生彩史(1911-1966)と片山桃史(1912-1944)らが参加しました。「京大俳句」は1933年「ホトトギス」系の京都帝大関係者によって創刊され、「新興俳句」自由主義派の拠点となりました。他に「句評論」は1931年に創刊され、また「新興俳句」の路線に走ったのです。「土上」は1922年に創刊され、嶋田青峰(1882-1994)、東京三(秋元不死男:1901-1977)らが無季俳句を発表した。林田紀音夫(1924-1998)は戦後の無季俳句の代表人物であります。


‧ 5)「人間探求派俳句」:


元来自然の吟詠を厳守しいた俳句界にも、こんな狭い範囲で吟詠するのに飽き足らず、この自然吟詠から離れて、もっと毎日の生活に即した精神心理方面の俳句を詠むのを求めるようになりました。このような俳句は理解しにくい俳句になりがちで、皆から「難解派俳句」と呼ばれるようになりました。こんな俳句を詠んだ俳人には石田波郷(1917-1969)、加藤楸邨(1915-1993)、中村草田男(1901-1983)、篠原梵(1910-1975)らがおり、評論家の山本健吉(1907-1988)が1939 年7月に、これら四人の俳人を呼んで「新俳句の課題」という題目で検討会を開きました、そして俳句は日常生活上で出会う一切の感動を詠むべきだと、即ち人生生活の内容、目的など、日常生活に出会う全てを詠むべきだと、回想、ビッジョン、理想なども含めて、即ち人性内面の一切を、そうすると当然理解しにくい言葉が出てくる、即ち「難解派俳句」となるわけで、山本はこれじゃ根本的に人性の目的の意義の哲理など深奥な題目になるじゃないかと、「人間」の問題を探究しているゆえ「人間探求派」とすべきだとしました、そこで会のなかで「人間探求派」と言うこの言葉が生まれたのです。


‧ 6)「プロレタリア俳句」:


大正時代の末期から昭和時代の初期の頃、ロシアのプロレタリア文学の発展の影響を受けて、日本においても「プロレタリア俳句」が発展しました。プロレタリア派の俳誌「俳句生活」では「花鳥諷詠」は現実逃避だと否定されました、まさしく中国において五四新文化運動時代に、古詩の吟詠は「無病而呻吟」(病気無くしてただうなっている)と蔑まされ、ある期間影を潜めたのと異曲同工の感があるが,日本では伝統派は没落することなく、伝統、非伝統がそれぞれの道を歩んだのです。


‧ 7)「戦争俳句」:


無季俳句の盛況の様を見て、これは事態厳重だと悟った虚子は1936年、ついに吉岡禅寺洞、日野草城、と杉田久女三名を「ホトトギス」から除名しました、そして一方「馬酔木」の水原秋桜子は、後にまた戻ってきて「有季定型」を維持するのに尽力しました。そして高屋窓秋と石橋辰之助が「馬酔木」を離れた。1937年に日中戦争が始まると、「伝統」、「新興」双方とも戦争の雰囲気に巻き込まれて行き、戦争に関する俳句、戦争を謳う俳句が多く詠まれました、一方反戦の俳句もありました、これが所謂の「戦争俳句」であります。こう言うことは古今中外いつもあることであり、また必ずあることでもあり、人性、政治、心理戦の常套手段で、ただ証拠のため取りだすのは必要性はあるが、特に取り立てて大げさに吹聴するのは、とやかく言われる口実になりかねません。中国の文化革命時期における文人の命運を例えに取れば、枚挙に暇がないでしよう。十三億の人口の中で一人でも反抗した人がいたであろうか、こう言うと酷過ぎやしないか、誰一人反抗する能力がないのだと言うべきです、それで中国人を責められようか、答えは「否」、古今中外こういう成り行きは極めて人性にそぐう成り行きであり、皆この様であり、よく理解できる筈。問題は事が過ぎた後、ただ一人巴金だけが具体的な懺悔をし、良心的な発言をしたことです。1978年12月から1986年7月にかけて、巴金はまる七年の時間を費やして終に五巻四十余万字の巨著で以って人達にこの時代の真実を言う大著を奉げたということです、この著作には一人の老人の晩年の真実なる思想と感情が滲み出ています、中国の一人の知識分子の四十年に及ぶ心の歩み-「懺悔録」-《随想録》なのだ、だがその起因たる元凶はいまだに神として祭られ、祭壇の上から意気軒昂として人類を見下しているのだ、この人類の世紀の大悲劇にはまだ終止符が打たれていないのです。


日本の俳句界も戦争期間において人性の当然なる命運に遭っている。言論自由の圧迫、特務工作員による拘束、「新興俳句運動」の主だった俳人の多くが逮捕され、俳誌も取締りを受けた、例えば:「京大俳句」、「土上」、「句と評論(廣場)」、「天香」、「俳句生活」等の俳句雑誌、また檢舉された俳人には:平畑靜塔、井上白文地、仁智栄坊、石橋辰之助、渡辺白泉、西東三鬼、嶋田青峰、古家榧夫、東京三(秋元不死男)、藤田初巳、細谷源二、栗林一石路、橋本夢道などがいました。


ここに至って二十世紀前半の俳句改革運動は戦争によって潰され終わりを告げました、しかし「新興俳句運動」は「俳句」の地位を高くし、いつまでも「花鳥諷詠」の小さな枠組みのなかに閉じ困ることなく、「俳句」を西洋近代詩の詩型に負けない文学地位まで引き上げたのでした。


戦争の混乱時期を経た後、戦後一年京大フランス文学科教授桑原武夫の「俳句第二芸術論」騒動が起きました、桑原が言うには俳句は芸術じゃなくて一種の芸事の類であると、かれは俳句作家の価値は作品の優劣でなく、弟子の数の多少、主宰する俳誌の発行部数の多寡を基準とし、俳句は花道と同じくお稽古事だ、ゆえに俳句の芸術地位を否定し、第二芸術だと貶めました。このことは当時の俳句界に相当な衝撃を与えたようだ、がある人は当時の俳句界の反撃が弱すぎたのではないか、またあるものは確かに反撃はあったと、いろいろな批評があるが、筆者の知識では評論する能力はなく、ただ確かなことは俳句界を打ちのめす力はなかったと。


‧ 8)「根源俳句」:


山口誓子は1935年に「ホトトギス」から脱退後、水原秋桜子の「馬酔木」に参加したが、1948年また「馬酔木」を離れた、その後「新興俳句」派の西東三鬼、秋元不死男、平畑静塔(1905-1997)、高屋窓秋、三谷昭及び弟子の橋本多佳子、榎本冬一郎(1907-1997)らの推挙によって俳誌「天狼」を創刊した。他に永田耕衣(1900-1997)、横山白虹、神田秀夫(1913-1993)、佐藤鬼房(1919-2002)、沢木欣一(1919-2001)らの俳人たちも参加した。山口誓子が創刊号で俳句の「根源」を探求すべきだという一文を載せたので「根源俳句」が「天狼」のレッテルに成ってしまいました、そして多数の同人もあらゆる角度から俳句の根源のついて検討し、ある者は俳句の根源は人生の意義を追究すべきだと、ある人は……、皆拠るところあり、永田耕衣の如くは仏教の禅から最後に「無」に達しました、あまりにも多方面から根源を探求したため終に同一の結論に達するあたわづ、最後には探求しようとした「根源」そのものが何であるかも問題になってしまいました、しかしこれ等によって俳句の内容を深化し、また俳句の多様性が浮き彫りになりました、結局は有耶無耶のうちに幕が閉じられたのでした。


‧ 9)「社会性俳句」:


戦前から俳句は社会背景を主体とした社会性特徴があるべきだという言論がありました。どの時代にもその社会特性に適合した社会性俳句があるべきである。第二世界大戦後思想の自由が社会主義思想の展開をもたらしたのは当然である。俳誌「風」が発刊された後沢木欣一らが誌上で社会主義思想を論じました、そして金子兜太もそれに賛成するに至って俳句の社会主義性の論争が盛り上がり、後左翼俳人の俳誌「俳句人」が発刊した後、労働背景を主とした職場俳句が盛んになりました。


‧ 10)「造型論俳句」:


俳句の表現方式は子規の写生に始まり、客観から主観に、直叙から比喩、直喩から暗喩、隠喩、個体から社会、吟者主体から読者主体へとうつり変り広がって行きました。戦後に至って社会性俳句が盛んになり、1961年に金子兜太が社会性俳句に賛成すると共に「造型論俳句」説を提唱し、詠む自己と景の間に第二の主体をおいて俳句を作る方法を説いた。金子氏は1962年俳誌「海程」を創刊し多くの前衛運動の俳人がその傘下に集まりました:隈治人(1915-1990)、林田紀音夫(1924-1998)、堀葦男(1916-1993)、穴井太(1926-1997)、稻葉直(1912-1999)、八木三日女(1924-)、阿部完市(1928-)、島津亮(1918-2000)らである。金子氏は現在日本最大俳句組織「現代俳句協会」のリーダー(名誉会長)であり、最近その発言はなんだか伝統俳句に回帰する傾向がある様に聞こえる、また去年(2011)若い世代の俳論者らの考え方では彼の「造型論」の解釈にもいろいろ異論が出ています。