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「俳句」、「世界俳句」、「漢語/漢字俳句」 吳昭新(瞈望、オーボー真悟)、Chiau-Shin NGO

 

6. 俳句の本質


下記の特質を有します:


‧ 詩情,


‧ 短小,


‧ 韻律(節奏、拍子):朗読または口ずさむとき、語呂がよく、音楽性がある。


‧ 余韻(鐘の音のように余韻がある)


‧ 余白を残す(水墨画のごとく余白をのこす)


‧ 含む?(禅-鈴木大拙)


(二) 俳句の類型

「俳句」と言う名称は明治時代に正岡子規によって命名されたのです。


二種に分類されます:


‧傳統俳句


‧非傳統俳句(前衛、新興、…俳句等)

1. 傳統俳句(定型、有季):


正岡子規(1867-1902 ):によって定義され,一定の音数、季節に関する語彙(季語、季題)と「切れ」字を必要とし、そして客観写生を主とする。


‧ 五七五(十七音節):分上、中、下三段に分けられ,第一段は五音節,第二段は七音節,第三段は五音節となり、これに符合しない場合は「破調」と言い、音数がよけいのばあいは「字余り」足りない場合は「字足らず」と言います。


‧ 季語(題):季節に関する言葉を必要とする。


‧ 切:一句の終わりを表す。


‧ 写生:詠む内容は大自然と関係があるべきで、見たままを描写する。

2. 非伝統俳句 :


‧伝統俳句の制約によらざる俳句(五七五定型、季語、切詞、寫生)を言う。俳句は内容、形式の違い、または詠まれた時点によって、ことなる呼称によって呼ばれる。詳細は後述す。


‧「雑」:子規は俳句とは上述の制約を必要とすると言ったが、決して制約に合わない句は俳句ではないと言うてはいない、そして制約に符合しない句は「雑」の項に帰して、やはり俳句としている。

(三)子規の弟子:


 子規は「俳句」の創始者であり、また命名者でもある。彼の弟子たちの中で特に有名な人が二人います、人呼んで子規の双璧という高浜虚子と河東碧梧桐の二人のことです。二人は別々の道を歩きました、一人は子規が決めた制約を守る道を歩き、もう一人は従わない道を選びました。しかし、二人とも後世の人々に喜んで鑑賞される作品を残しており、俳句史のなかで特に注意を受けており、はっきりした軌跡を残しました。子規は二人の弟子を評して曰く「虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐は冷やかなること氷の如し」と。ネット上では「碧梧桐はリーダーとしての気質に欠くゆえ、一生涯常においしい部分を人に取られた、しかし、その行脚三千里の著作を見るに、その俳句に対する打ち込みは誰にも劣らず、惜しむべき人なりと。それに比べるに虚子は生まれつき、何事にもいい加減な性質だが、それでいつも一番おいしい部分を掻っ攫うという、まさに世渡り上手で、褒められる事ではありませんが、これだけで批評を下すのもまた公平じゃないという人もあり、事実上虚子あっての今日の俳句の盛況があるのである。」

‧ 高浜虚子(1874~1959):


俳句界では通常「虚子」で通っている。虚子は子規の六つ年下、同郷であり、学生時代から上京して勉強している子規を尊敬していた。子規が休暇で学校から帰ってくるといつもついていた、そして子規もとても彼を可愛がっていて、彼を自分の俳句界における相続人に養成しようと思っていたが、虚子は始め一心に小説家になろうと思っていたので、俳句に対してあまり興味を持たなかった。虚子は真に彼を大事にしたが、彼の子規に対する態度はそれ程でもなかった。後日他人もそう感じたようで、筆者も彼の著作の「私と子規」の内容から彼が余り虚子を相手にしない様に感じられた。彼がその後歩いた道は小説が実を結ばず、やむなく放棄して虚子の定義した俳句の道、すなはち伝統俳句の道、に戻ったのだが、青は藍より出でて藍より青しというか、伝統俳句界の尊敬も厚く、伝統俳句の始祖の地位を獲得したが、子規を批評して曰く:「子規の俳句は大した事はない」と。彼は写生主義の上に「客観」を加えて「客観写生」とし、その後ふたたび「花鳥諷詠」と改めた、即ち「五七五定型」、「季語」、「切れ」及び「客観写生」の「伝統俳句」である。


はじめ俳句にそれほど真面目ではなかった虚子は、俳句雑誌「ホトトギス」を総合文芸雑誌の方向にもってゆき、小説などの文芸作品を載せたが、後に自分の書いた小説もあまり芳しくないのを知り、また碧梧桐派の新傾向俳句が俳句界の中心になりつつあるのを見て、1912年に俳句界に復帰し、伝統俳句の擁護を唱え碧梧桐の新傾向俳句に対抗した。この間、揺れはあったものの、また一度は主観の新伝統の導入を模索したが、1916年ついに「客観写生」を基本とすることに定着し、「有季、定型」の伝統俳句の位置を確定した。そして昭和時代(1926-1989)の1926年にいたって、「客観写生」にさらに加えるに「花鳥諷詠」を以ってし、俳句は自然現象及びそれにつづく人事界の事どもも諷詠するものと説明を加へた,そして、それ以来現代俳句は主題を季節のみに限定すべきではないと言う考え方が出てきた。「客観写生、花鳥諷詠」が伝統俳句の詩形であるようになり、また今日の日本俳句の主流になったのである。


この派に所属する俳人は大正時代には、村上鬼城(1865-1938)、飯田蛇笏(1885-1962)、原石鼎(1886-1951)及び女流俳人の杉田久女(1890-1946)ら、大正末期から昭和初期には水原秋桜子(1892-1981)、高野素十(1893-1976)、阿波野青畝(1899-1992)、山口誓子(1901-1994)、山口青邨(1892-1988)、川端茅舍(1897-1941)及び女流俳人の中村汀女(1900-1988)、星野立子(1903-1984)、橋本多佳子(1899-1963)及三橋鷹女(1899-1972)らがいる。

‧ 河東碧梧桐(1873-1937):


碧梧桐は虚子と同じく子規の同郷であり、虚子より一歳年上である。子規が休暇で東京から帰郷すると彼について野球の技術を習った、同時に子規の俳句にも興味を持ち、同じクラスの虚子を勧誘して子規について俳句を習った。子規なきあと、子規の「日本」新聞での俳句欄の選者の仕事を継承した。しかし、子規がきめた俳句の約束を嫌ったため、だんだん定型(五七五)の約束に縛られない「新傾向俳句」へと走った、即ち「非伝統俳句」、「自由律」、「無季」の俳句である。後全国を周遊行脚し、蕪村に関する少なからずの著作を残したほか、また旅行文集《三千里》もある。後述の「新傾向俳句」と「自由律俳句」をご参考下さい。