ちょっとだけ、自分を見つめなおしてみた。
思い返せば、出来ないものはない・・・と思っていたし、実際できた・・つもりでいた。
できた・・・というのは、勘違いであり、その道を究めたわけではないのだ。
ということは、できていない・・ということになる。
なのに、何を勘違いしたのか、どこでどう間違ったのか、自分は“できる”人間だと思い込んでいた。
まず一つの敗因は、この勘違いの思い違いにある。
それによって、現在もなを、いろんなことが中途半端になっている。
若い(10~30代)自分には、できていたと思い込んでいたようだ。
つまりは、冷静さに欠けていたわけである。
冷静に自分を見つめていれば、そんな勘違いなどしなかったはず。
例えばだが、このことは、こういう理由があり、こういう現象なのだから、間違いなくこうである・・・という決めつけ。
この、こういう理由とは、自分の狭い視野の薄い知識ボキャブラリーからの理由であり、
こういう現象というのも、また然りなのだ。
だから、間違いなくこうである・・・という結論に至ってはいけないし、危険なことなのである。
ずっとこれを押し通してきてしまっていた感が、多々あるのだ。
ときどき、妻に言われては、突っ張りかえしてきたことも幾度となくあったが、冷静沈着に
考えると、自分に非があることがあまりに多いのがわかってきた。
分かってはいるのだが、認めることは負けを意味すると思い、それは避けてきた。
しかし・・・・それを認めることは負けではないのだ。
認めるということは、自分を許すことになるから、実は身も心も楽になるというのも最近知った。
認めないから、強がって、また狭い自分の殻に入ってしまい、知識を遠ざけてしまうのだ。
よく言われる一匹狼・・・というカッコいい言葉とは裏腹に、独りよがりの独裁的な根拠のない判断で、何十年も相当迷惑をかけてきた。
最近になり、やっとわかりかけてきたが、もう遅いのだろうか・・・。
いやいや、決してそんなことはない・・・と思いたい(^_^;)。
まだまだチャンスもある・・・と信じたい(^_^;)。
ここから負け組を返上しないと、その先に待っているのは、惨めな「死」のみである。
突っ走って惨めに死ぬか、知識と行動力で成功を修めて、笑って死んでいくか・・・。
今は・・・何か違った強い意志を体に感じられる。
思い返せば、出来ないものはない・・・と思っていたし、実際できた・・つもりでいた。
できた・・・というのは、勘違いであり、その道を究めたわけではないのだ。
ということは、できていない・・ということになる。
なのに、何を勘違いしたのか、どこでどう間違ったのか、自分は“できる”人間だと思い込んでいた。
まず一つの敗因は、この勘違いの思い違いにある。
それによって、現在もなを、いろんなことが中途半端になっている。
若い(10~30代)自分には、できていたと思い込んでいたようだ。
つまりは、冷静さに欠けていたわけである。
冷静に自分を見つめていれば、そんな勘違いなどしなかったはず。
例えばだが、このことは、こういう理由があり、こういう現象なのだから、間違いなくこうである・・・という決めつけ。
この、こういう理由とは、自分の狭い視野の薄い知識ボキャブラリーからの理由であり、
こういう現象というのも、また然りなのだ。
だから、間違いなくこうである・・・という結論に至ってはいけないし、危険なことなのである。
ずっとこれを押し通してきてしまっていた感が、多々あるのだ。
ときどき、妻に言われては、突っ張りかえしてきたことも幾度となくあったが、冷静沈着に
考えると、自分に非があることがあまりに多いのがわかってきた。
分かってはいるのだが、認めることは負けを意味すると思い、それは避けてきた。
しかし・・・・それを認めることは負けではないのだ。
認めるということは、自分を許すことになるから、実は身も心も楽になるというのも最近知った。
認めないから、強がって、また狭い自分の殻に入ってしまい、知識を遠ざけてしまうのだ。
よく言われる一匹狼・・・というカッコいい言葉とは裏腹に、独りよがりの独裁的な根拠のない判断で、何十年も相当迷惑をかけてきた。
最近になり、やっとわかりかけてきたが、もう遅いのだろうか・・・。
いやいや、決してそんなことはない・・・と思いたい(^_^;)。
まだまだチャンスもある・・・と信じたい(^_^;)。
ここから負け組を返上しないと、その先に待っているのは、惨めな「死」のみである。
突っ走って惨めに死ぬか、知識と行動力で成功を修めて、笑って死んでいくか・・・。
今は・・・何か違った強い意志を体に感じられる。