霊力の道具として働く霊能者は多くの魂へ何らかの影響を及ぼしています。そこが霊的現象の大切な点です。悲しみの人に慰めを与え、病の人に治癒を与え、主観・客観の両面に渡って霊力の証を提供することも確かに大切ですし、これを否定できる人はおりません。が、真の目的は現象的なものを超えたところにあります。魂に感動を与え実在に目覚めさせることです。地上は未だに”眠れる魂”で一杯です。生命の実相をまるで知らず、これから目覚めていかねばなりません。霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への覚醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在であることを自覚させることです。いったん霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して生長を開始します。その時こそ全大宇宙を経綸する無限の創造力のささやかな一翼を担うことになります。こうして霊力の道具として役立つだけの資格を身につけるまでには、それなりのトレーニングが要ります。それは大変なことです。何となれば、その結果としてある種の鍛錬、ある種の確信を身につけなければならず、それは苦難以外には方法がないからです。霊力の道具として歩む道は厳しいものです。決して楽ではありません。容易に得られた霊能では仕事に耐え切れないでしょう。魂の最奥・最高の可能性まで動員させられる深刻な体験に耐えるだけの霊性を試されて初めて許されることです。そうして身につけたものこそ本物であり、それこそ霊の武器と言えます。その試練に耐え切れないようでは自分以外の魂を導く資格はありません。自ら学ぶまでは教える立場に立つことはできません。それは苦難の最中、苦悩の最中、他に頼る者としてない絶体絶命の窮地において身につけなければなりません。最高のものを得るためには最低まで降りてみなければなりません。こうした霊的覚醒、言いかえれば飢えと渇きに喘ぐ魂に霊的真理をもたらすことは実に大切なことです。それが地上での存在の理由の全てなのです。なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせずに地上を素通りしております。ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ、一から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方が遙かに学びやすく、その方が自然なのです。悲しみの人を慰め、迷える人を導き、悩める人を救うために、自ら地上において苦難の極み、悲哀のドン底を体験しなければなりません。自分自身の体験によって魂が感動した者でなければ人に法を説く資格はありません。教える立場に立つ者は自らが学ぶ者としての然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦ー辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばねばなりません。それが真に人のために役立つ者となるための鉄則です。そうでなければ有難いのだが、と私も思うことがあります。しかし側(はた)の者には分からないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽に定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値はありません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊性を開発し、心霊能力を可能な限り霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を具えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。私たちが関わるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)のもつ能力、つまり肉体の五感の延長でしかないものには、例え地上の学者がどんなに面白い実験※をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。(※ここではESPつまり超感覚的能力の実験を指していますが、シルバー・バーチの説を総合すれば、ヨガや密教における超人的な術、未開人におけるまじない的な術、雨を降らせる術なども同類に入ります。訳者)

 

今回の内容は、かなり厳しいものではあります。これは霊能者に対して言われていることなのだと思いますが。ただ、普通の人間にも言われているのは地上での存在の理由として、やはり霊的真理を知ることがとても大切なことであるということです。けれど、大多数の人間は身につけなければいけない霊的なものを身につけずに地上を素通りしているとのこと。向こうの世界へ行った際、何の備えもないか、誤った思想や信仰によって一から学び直さなければならない状態なのだと言われています。しかも、そういったことは地上の方が遙かに学びやすく、その方が自然だとも言われているのです。現在も霊的なことを知らずに亡くなっている方が多くいると思います。せっかくこの世に生まれて、霊的真理を学びに来ているのに、学ばずに終わるということはこの世に生まれて来た意味がないということにもなりますよね。また今ほど死についてしっかりと考える時はないのではないかと思うのです。死を考えることは、死後の世界を知ろうとすることに繋がります。必ず全ての人間が行くべき場所なのだから、怖がらずに、避けずに、逃げずにしっかりと考えて欲しいと切に願っております。