「霊格が向上するほど生命活動が協調によって営まれていることを悟るものです。自分一個で生きているものは何一つありません。お互いが力を出し合って生きております。一人ひとりが無限の連鎖関係の中の一つの単位なのです。そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私たちがこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由があるわけです。一人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。みんなと協力し合って生きて行くように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。すなわち世界の人間の全てが霊的につながっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されないのです。登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物も一緒です。なぜなら生命は一つであり、無限の宇宙機構の隅々に至るまで、持ちつ持たれつの関係が行き渡っております。独善的考えから他の全ての方法を蔑視して独自の悟りの境地を開くことも不可能ではありません。が、私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解した限りにおいて、宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立することは絶対に不可能です。他人の援助を頼まずに独力で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。私はただ、その方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てるーーこれが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。それが宇宙の大霊の意志だと信じるからです。そうでないと思われる方は、どうぞご自分の道を歩まれるがよろしい。

人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治癒を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて、多くの魂を鼓舞してきました。要するに己れを犠牲にして人のために尽くしたのです。それが神の御心なのです。悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。それがたった一人であっても立派に神の意志を行為で示したことになります。そんなことをする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差しのべることは決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。もちろんそこに動機の問題もあります。見栄から行う善行もありましょう。が、それも何もしないよりはましです。邪な考えに発した偽善的行為、これはいけません。魂にとって何の益もありません。摂理をごまかすことはできないのです。完璧なのです。イエスが"慈悲の心は耐え忍ぶもの”※と語ったのは神の意志の偉大さを説かんとしたのです。善行はそれ自体の中に報酬が宿されております。(※この言葉は聖書では”愛は寛容である”と訳されております。イエスの言葉はこのあと更に次のように続きます。"愛は慈悲に富む。愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己れの利益を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ”ーー訳者)」

 

今回の内容は、とても壮大です。人間も動物もすべて生命は一つでつながれていると言われています。そして助け合うことが必要だと。それはこの世だけではなく、宇宙全体が協調し合って生きていくようにできているからです。凄いことだと思います。しかも他を置き去りにして自分だけ抜きん出ることは許されず、登るのも下るのもみんな一緒ということなのですね。ため息しかでません。けれどシルバー・バーチ霊が常に言われる人のために役立つという、このことをモットーに生きて行くことで、それは叶うではないかとも思います。それには世界中の一人一人がその事を実践して行く事が求められます。それを思うと先は遠いと思わずにはいられませんが。最後の”慈悲の心は耐え忍ぶもの”更に訳者の方がイエス様のお言葉を書かれていますが、"愛は慈悲に富む。愛は妬まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己れの利益を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ”これが実践できたら、地上天国間違いないですが・・・でも出来ないと諦めたら終わりです。出来ることから一つでも二つでも、実践して行けるように努力して行くことが大事なのだと思います。

 

 

私事ではありますが、今まで更新できずにいた経緯を書いておきますね。

実は先日、具合が悪くなりまして、かれこれ3週間にもなります。やっと90%まで回復してきたようです。

35年振りの風邪で、しかもここまでひどい状態になったのは生まれて初めてでした。

ただ、その理由としてですが、私が具合悪くなると追うように主人も具合が悪くなり、高熱が出てしまったので、夜中看病するのは私しかおらず、また、その前からなのですが、高齢犬がいつも預かってもらっている所で、脱水症になり、歩くことが出来なくなっていたので、それからはずっと介護状態で世話しなければならなかったのです。鍼に2回通っていて、もう2回続けて行けば、一週間に一度でいいと言われていましたが、その後私達夫婦の具合が悪くなってしまったために、全く鍼に通うことも出来なくなってしまったのです。それでも介護状態は昼も夜もなく続いていた上に、主人の看病もでしたし、後の2匹のわんこの面倒ももちろんでした。自分の具合の悪さを押して、無理をしたので、ここまで長引いてしまったのだと思っています。けれど、夫婦二人と愛犬3匹の暮らしでは、無理をしてでも誰かが面倒見なければ、全員共倒れになってしまいます。そのことを今回本当に痛感しました。ただ、その間にはいろいろな方達に助けてももらいました。その恩義は一生忘れることはできません。本当に心から有難く感謝の気持ちで一杯でした。

今回のことは私達夫婦にとって、必要なことだったのだと思っています。

特に私にとって必要だったからこそ、おきた必然だったのだと感じています。

 

その時にミディアムの方が、私のガイド様から頂いたお言葉を教えてくれました。記させて下さいね。

「人は必要であれば、悲しみも痛みも不安も迷いも経験する。

それが、若い時だから良いとか悪いとか、老年だから良いとか悪いとかでは無い。

その人にとって、その時に必要だから現れているし体験している。

食べる眠る話す泣く笑う、平時なら容易にできることが出来ない体験が、学びとなる。

それを体験することが不幸なのではない。

それがあるから、日々に感謝し、当たり前を当たり前でないと気づく、

それこそが、生きていくうえで大切な事。

今日の自分と粛々と向き合うこと。

当たり前だったことが、最上の幸せだったと気づくこと。

自分で自分を不幸にしてしまわないこと。

そして、大きく取り越し苦労をしないこと。

生きる気力が湧かない日があってもいい。

出来ることをひとつずつ、出来ないことを数えて、出来ない自分に落胆する必要はない。

悲しみも苦しみも絶望も、永遠ではない。

永遠の様に脳が感じても、主はあなたの魂である。

今は、平時と同じだけの事が出来なくても良い」

涙ながらに読ませて頂きました。まさしく日々の当たり前の生活の有り難みを実感していました。

今回のことがなければ、今までの当たり前の生活は当然のこととしてしか感じなかったかも知れません。

今までにない学びを体験させて頂いたことに、本当に有難い思いになりました。

(ただ、残念なことに、このようなお言葉を頂きながらも、ほぼ健康体で生活していた私でしたので、なかなか良くなれない自分に今までにはないほど気落ちしたことも事実です)