「自分がこの世に存在することの目的を日々成就できること、つまり自分を通じて霊の力がふんだんに地上に流れ込み、それによって多くの魂が初めて感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きることの有難さを噛みしめる機会を提供することーーこれは人のために役立つことの最大のよろこびです。真の意味での偉大な仕事と言えます。地上のどの片隅であろうと、霊の光が魂を照らし、霊的真理が染み渡れば、それでいいのです。魂はそれぞれの使命のために常に備えを怠ってはなりません。時には深い谷間を通らされるかもしれません。度々申し上げてきたように、頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならないのです。

地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では"物”を有難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。人間が必死に求めようとする地位や財産や権威や権力にも重要性を認めません。そんなものは死とともに消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。

世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしもあなたが他人のために自分なりにできるだけのことをしてあげたいという確信を心の奥に感じることができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くしたことになります。言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけたことになるのです。これは実に偉大で重大な仕事です。手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生まれて来たのかを悟り、地上を去るまでに何を為すべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡智と理解を広める仕事に協力していることになります。

肝心なことはそれを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終わってはいけません。こんどはそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合うことによって霊的に成長していくのです。それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないということです。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。霊的成長にも摂理があり、魂の受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。それを本当に良い知らせであると思って下さるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えが出来ていないということです。

イエスはそのことを”豚に真珠を投げ与えるべからず”と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものをもってしても他人を変えることはできないのです。自分で自分を変えるしかないのです。私たちは同胞の番人ではないのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為に責任は取れません。あなたが行うこと、心に思うこと、口にする言葉、憧れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

あなたにできるのはそれだけです。他人の生活を代わりに生きることはできません。どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反することだからです。そうと知りつつ摂理に反することをした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きい代償を払わされます。知識には必ず責任が伴うからです。真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。」

 

今回の内容も、大変に奥が深い内容です。 人間がこの世で為さなければいけないことを教えて下さっています。けれど、それはその教えを良しと思える、つまり魂にそれを受け入れる準備の出来た人だけだと言われています。それだけ大変なことなのだと思います。けれど、人のために役立つことをするということは、自分の霊的成長にもつながることなのです。人のためと思ってしていても、実は自分のためであるということ、なのですよね。また「頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならない」と言われています。この事は生前母より、常に言い聞かされていました。「中途半端な下り方ではなく、いっそ海の底の鍋の蓋を叩いてくるくらいの覚悟を持たなければ本当の意味の上は目指せない」と。要するに中途半端に苦しみから辛くて逃げるのではなく、しっかりとその苦しみに向き合いどんなに辛くともとことん苦しみ抜くということだのだと思います。そして苦しみに抜いた先には希望が、光が見えるということなのでしょう。それが霊的に目覚めることに繋がるのだと思います。確かに私は一人息子を亡くした時には、言葉では表現出来ないほどの辛さ苦しみ悲しみを味わいました。けれど神様を信じ、これにはきっと意味があるのだと、今分からなくても必ず、この苛酷な試練を乗り越えた先には光があるのだと自分を励ましながら早い段階で乗り越えることが出来ました。それにはもちろん、シルバー・バーチの霊訓はもとより、寄り添って助けて下さった方々、そして瞑想、祈り、更にはヒーリングの力を授けて頂き、人に役立つお役目を頂けたこと、すべてに感謝でした。やはり何事も自分次第なのだと思います。上に上がるも下に下がるも自分が決定するのです。自分の行為のみが霊格を決定するのだと思います。そして死後の霊界での暮らしはその霊格によって決まるわけです。そのことを知れば、束の間のこの現世での時間を何に重きを置けばいいかは自ずとわかる筈です。