宮島のイチキシマヒメは御殿を建てるために各地を点々としていた | 運の良い座敷童子的な生き方

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運の良い経理事務。 星を読みながら古代史の旅をしています。生まれた時の南の天頂に木星があります。

こんにちは✨

今夜は新月ですね🌙
今日はあまりの暑さに、朝から滝修行に行っておりました😅

ここは宮島の対岸にある厳島神社の摂社、大頭(おおがしら)神社です⛩️


※妹背の滝



妹背の滝はものすごく人気の水場スポットで、冷たくて清らかで気持ちいいです😆✨

この大頭神社には厳島神社の摂社でして、宮島の弥山から飛んできた四羽の神烏(ごがらす)の伝説🐦‍⬛があるのですが、




宮島の厳島神社って、





カラスによって社殿の場所を定めたのです😅





そして、祭神である宗像三女神のイチキシマヒメは、





各地を点々と移ってきたのです😅





イチキシマヒメは、御殿を作るために、その場所を探し求めていたのですが、





お伊勢のアマテラスと大きく違うのは、ご自身が探し求めていたことです😅





その元宮もすべて残されており、伝承も数多く残っておりますが、

これが厳島神社の起源となり、「七浦のかりのみや」と呼ばれています。




だから、本来は厳島神社というのは、イチキシマヒメ一柱の神社なのですね。



※大頭神社



しかし、




イチキシマヒメはわたしのご近所で病気になり😅




町内で静養していたのですが、亡くなられてしまいました。




そして、弥山山頂の岩屋に葬られたのです。



※弥山山頂



これは、当時は風葬だったからなのです😅

古墳時代よりも前の話なので、このようなヒモロギとなっているのです。

これが、





宮島の厳島神社なのです。





弥山というのは、イチキシマヒメの墓標なのですね。

あの岩屋はヒモロギなのです。





イチキシマヒメのご遺体は、その後別のところに安置され、国幣大社になっております😅

福岡県の宗像大社ではありません。





ここは宮内庁が調査を禁じていますので、おそらくなかなか表には出てこないと思われます。

ただ、日本書紀にはハッキリと記されているので、あの時代には、イチキシマヒメの動きがわかっていたのだろうと思われます。





なお、わたしはこの真上で、ブログに書いてもいいのかどうかを確認させてもらいました😅

もう2年経っておりますし、ご近所で亡くなられたのも、何かのご縁なのではないかと思ったのです。



※知る人ぞ知る話だしな!




さて、大頭神社の祭神は、大山積命であり、宮島の氏神である「大元神社」と同じです。




そう、




イチキシマヒメはしまなみ海道を渡って来られたのです。





最初の鎮座地は、生島の瀬戸田となります。





跡地はお宮が残る公園となっておりました😅





ここから、大崎上島(おおさきかみじま)に移ります。





大崎上島は、なんで「かみじま」なのかというと、イチキシマヒメが住んでいた旧厳島神社でもあったのですね😅




なお、「来島(くるしま)」もイチキシマヒメが「島よ、こいこい」と手招きしたことが地名になっておりますよ。





このあと、大竹市に移り、そこから宮島を見て、「あそここそよい所だ。永久に鎮まろう」と言って、遷座地が定まったと伝わっております。




なお、イチキシマヒメは、安芸国の豪族・佐伯氏に「この島をわたしにくれないか」と交渉しており、

現在の社殿地は、イチキシマヒメが高天原から連れてきたカラスで定めたのです。





このカラスこそ、ヤタガラスだったのかもしれないですね🐦‍⬛



※こちらがカラスが止まっていた場所



この佐伯氏は大分県宇佐市から出てきた因幡の白ウサギルートの豪族でして、

こちらの口伝にはもっと詳細なことが伝わっております。

どうも確実なことは、





宗像三女神のイチキシマヒメは、





実在していた、





ようですね😅

広島の瀬戸内海側は海人族の停留港でして、今でも造船や車のお祓いが盛んなのです🚙

大頭神社には、車バージョンの大祓がありました✨✨



※車のナンバーを書くようです



その後、厳島神社は安芸国の守護職となった平清盛により、社殿と回廊が建設されました✨




平家が滅亡したあとは、源頼朝にも信仰され、毛利も社殿の建て直しに尽力しましたよ。




ということで、しまなみ海道ともご縁が深いイチキシマヒメでありました😆✨





今夜は新月🌙




イツクシマ




神を斎(いつ)く




ということで、おついたちは、本来は新月🌙ですので、ぜひお近くの神社をお参りくださいね✨