木を見て森を見ずとは言いますが
手話を学ぶときに
森を見る目が大事という話しをする事があります。
もちろん、
細部まできちんと捉える力も大事ではありますが
手話通訳養成の中で
木にとらわれすぎず
森を見る力も大切だと
私は考えています。
手話通訳者養成のカリキュラムの中に‘手話で要約’という単元があります。
流れで言うと、
最初に日本語の文章の要約力を高めるために単元がありその次にきこえない方の手話の話を見て、
手話で要約する学習を実施します。
最初にこのカリキュラムに関わったときに
きこえない人の手話を完璧に理解できていないのに
手話で要約なんて出来る訳ないのにと
厚生労働省公認の手話通訳者養成カリキュラムに対して少し疑念すら持ちながらも…
次第にこのカリキュラムの意味
その手話の全てを、詳細まで、分からなくても、
まず大体の内容、幹を理解することができる、
それは手話通訳の初期として必要な力であることを理解しました。
昔、私が手話初心者の頃には、
今のように手話通訳養成がシステム化されていませんでしたが、
その代わり、きこえない人たちとの関係がとても密でした。
手話はあまり上手ではなく、話されている内容がろくろく分からなくても、
手話サークルやそれに付随する人間関係の中に身をおいていました。
時にはきこえるのは私だけ、かなりの割合で話の内容がよくわかっていない、それでも何とか肝心な所はとらえたり、場合によっては失敗したり、細かいことは気にしなくても、話の大筋を想像して、そこにあわせてコミュニケーションする、
そういう経験の中ですべてが理解できなくても話の柱をとらえる力が培われたのでした。
しかし、現在は昔とは状況が違い、
手話通訳者をある程度の短期間で科学的に養成していこうという時代です。
特に地方は人材不足で、手話通訳者が恒常的に不足しているため一刻も早く、手話通者養成を進めなければならないということで、手話通訳者養成のカリキュラムに沿って指導を実施することが基本になっているわけです。
手話に限らず、英語の学習方法、英文を理解する時にも同じようなことが言えるようです。
昔は分からない英単語が出てきたら、すぐに辞書を引けと言われたものですが、
最近では少し変わってきて、さっと目を通して、分からない単語があったとしてもとりあえず読み進め、大体、何を言いたいのかをつかむ、その後に細かい単語のチェックをして、理解をさらに深めるというやり方がポピュラーのようです。
さて、今でこそ、邦画にも字幕がつくようになったりテレビにも字幕がつくようになりましたが、高齢のろう者の方々が若い頃にはほとんど字幕などなく、
また日本語の文章が苦手な方々も多かった時代、娯楽といえば、同じろうあ者仲間の手話語りだったと伺ったころがあります。
映画を観にいった仲間から、その内容を手話語りで楽しむというものです。
その当時、字幕はありませんが、映画のセリフはなしでも映像からストーリーを推測して組み立てられた芸達者なろう者の面白く豊かな手話語りを観ることがあの当時、日々の暮らしの中で数少ない娯楽であったということでした。
映像だけでストーリーを推測し、想像する訳ですから、時にはまったく内容が違っていたということもあるようですがそこはご愛敬、な~んだそうだったんだと笑い話になったそうで今とは比べ物にならないほど差別多き頃と思いますが、古き良き時代感もうかがえます。