手話通訳を志す人には、当たり前に学ぶことですが、

最近は翻訳技術にのみ固執する手話通訳者が出てきて、

中には“これって何の意味があるの?”などとのたまう輩もありますが、

実は聞こえない人たち自身には

あまり知られていないという残念な

安藤・高田論文「日本における手話通訳の歴史と理念」について

今一度、振り返りたいと思います。


現在から遡ること45年前1979(昭和54)年にブルガリアで開催された第8回世界ろう者会議にて聴覚障害者当事者の安藤豊喜氏・高田英一氏により「日本における手話通訳の歴史と理念」という論文が発表されました。


手話通訳論として、日本で最初に発表されたのは、1968(昭和43)年に発表された伊東論文です。『ろうあ者の権利を守る通訳を』を京都の手話サークル・通訳団が手話通訳活動を点検し、まとめ、当時の京都府立聾学校の教師・伊東隻祐氏が提起しました。


伊東論文では手話通訳の必要性とその意義が述べられ、ろうあ者の権利を守り、共同の権利主張者としての手話通訳が主張されていましたが、安藤・高田論文では、伊東論文を完全に否定しないまでも、権利を守られる立場ではなく、当事者の立場から、手話や手話通訳、ろう運動と手話通訳制度の歴史と発展を整理し、手話通訳者の養成をろうあ者自身がイニシアティブをとることが前提となっているのでした。


さて、日本の手話通訳を担う人々の変遷を考える時に、初めて手話通訳の存在を公に確認できるのは、1891(明治24)年に施行の刑事訴訟法・民事訴訟法になります。


聞こえない人が陳述する場合には通訳人に通訳をさせることができるという条文ですが当時は全国的にも手話が出きる人はわずかで、まして手話通訳技術を習得している人は皆無という状況でした。


その為に、司法領域のみならず、日常生活の手話通訳において手話通訳を担っていたのは、家族・ろう学校教員・知人、口話のできるろう者という一時的通訳者(アドホック通訳者)、手話学習者のボランティア通訳者でした。安藤・高田論文の発表の背景には、手話のできる家族や教師たちによるパターナリズムの考えのもとに行われるボランティア通訳の問題点、当事者が真に望む手話通訳と乖離していることがありました。


視覚障害者や車いす使用者が自分の声で権利を主張できる一方、当時、専門職として技術を持つ手話通訳者も存在しなかったために、聞こえない人たちは常に親や教師などの代弁者による権利主張になっていました。


だからこそ、親や教師などの代弁者ではなく、代弁者に権利を守ってもらうことではなく、聞こえない人自身が権利主張者の中心にあるために通訳教育を受けた専門職としての通訳者が強く望まれ、手話通訳者養成に聞こえない人自身が関わることが必要だと考えられました。


45年前に発表された安藤・高田論文は令和の世になり、さすがにこの時代としては不似合いな点もありますが、根幹にある手話通訳者の役割・存在意義は揺るぎないものがあり、手話通訳者養成においてバイブルのような存在で、今もかけがえないものとして、位置付けらるのだと思います。