数年前、東京大学の入学式での

祝辞スピーチが大変に話題になりましたが

ニュース映像に手話通訳者らしき姿がちらっと映っていたことを

ご存知だったでしょうか?

 

また、その他のとある有名大学の卒業式、入学式でも

舞台上に手話通訳者が立ちました。

舞台上の手話通訳を撮影してさらに大画面で

前のスクリーンに映しだし、その横に字幕もつけられました。

 

小学校、中学校、高等学校の卒業式、入学式も

依頼が多く、色々な学校に出向きますが

舞台上に手話通訳が立つということはなく

聞こえない方の席の前に、椅子を逆向きにして座る事がほとんどです。

ちなみにこの場合は聞こえない方自身が通訳を依頼し

意思疎通支援事業からお金は出されるので

学校にも聞こえない方も金銭的な負担はありません。

 

しかし、先の大学のケースは

大学側が手話通訳者の費用は負担しています。

 

また、とある「ろう学校」の入学式では

打合せ時に、細かく手話通訳者の担当部分の説明がありました。

司会・進行役の先生、校長先生をはじめ

ほとんどの先生方が手話が出来るので

その部分は手話通訳は必要ないとのことで

2人いる手話通訳者の出番は、来賓の挨拶の他、ほんの少しとなりました。

もちろん、先生方の手話の技術はピンキリですし

ろう学校で使用されている声を出しながらの手話に対して、

あれは日本手話じゃあない!という

否定的な意見もない訳ではありませんが

 

一昔前、聞こえない方々が

学校の先生方の話が全くわからなくて

始終、分かったふりをして、やり過ごし

手話を使うと教育の妨げになると

排除されてきた手話の歴史を想うと

感慨深いものがあります。

 

手話を学問的見地のみで議論するのではなく

教師と生徒がコミュニケーションをとるツールとして考えることは

ありだと思いますし、

音声付きの手話ではダメだという

ネガティブな批判だけで終わってはいけないと私は思います。

 

もちろん、もっと手話で

通じ合えるようになってほしいのは

当然にありますが。

 

 

 

 

さて話題の祝辞の言葉を一部、抜粋。

 

「大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、

これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。」

 

  認定NPO法人ウイメンズアクションネットワーク理事長 上野千鶴子