大阪府南河内郡太子町太子にある聖徳太子墓。
聖徳太子は第31代用明天皇皇子、第33代推古天皇皇太子です。
磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。
■叡福寺
724年(神亀元年)聖武天皇勅願により創建。
叡福寺南大門の真正面に見えるのが、聖徳太子御廟。
南大門の中央線上にあるのは叡福寺本堂ではなく、御廟です。
陵名:磯長墓[しながのはか]
陵形:円形、楕円形、円墳
別称:聖徳太子御廟、太子廟、三骨一廟、磯長御廟、聖徳太子墓、厩戸皇子墓
考古学的にも被葬者が明らかな古墳として、古墳編年における基準として、重要視されています。
■聖徳太子1400年御遠忌慶讃碑
■聖徳太子三骨一廟ご縁起板
三骨一廟の合葬墓と呼ばれ、廟窟内には中央奥の穴穂部間人皇女を中心に、右に上宮[かみつみや:聖徳太子]、左に妃女(膳部菩岐々美郎女)の棺台3基を配置。
■二天門
1688年(元禄元年)徳川綱吉の命で高木正陳により再建。
■敷石工事碑
2000年(平成12年)本龍代施工。
■二天門香炉
■増長天
丹南藩主高木主水正寄進。
■持国天
丹南藩主高木主水正寄進。
二天門北側背面。
水場。
■聖徳太子御廟
宮内庁管轄。
■制札
推古天皇皇太子聖徳太子 磯長墓
宮内庁では、被葬者は聖徳太子に治定。
聖徳太子(574-622:皇太子在位593-622)は、推古天皇(叔母)のもとで蘇我馬子と協調して執政し、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど、進んだ文化や制度をとりいれて冠位十二階、十七条憲法を定めるなど、天皇中心とした中央集権国家体制の確立に貢献。
また仏教の興隆に努め、後世には太子信仰として日本の仏教で尊崇の対象となっています。
■一般拝所
■特別拝所
■墓碑
聖徳太子磯長墓
■御霊屋
1844年(天保15年)御霊屋建立。
2005年度(平成17年度)御霊屋屋根葺替等の工事に伴う棟札調査。
南側開口部に檜皮葺の唐破風を持つ覆屋が設置。
墳丘南側に三段の屋根が羨道を覆い、内部に横穴式石室があります。
1879年(明治12年)石室調査。
さながらケーブルカー。
621年(推古29年)用明天皇の皇后、穴穂部間人皇女崩御、翌622年(推古30年)斑鳩宮にて妃女である膳部菩岐々美郎女薨去、その翌日に聖徳太子薨御と次々に死去・・・
押し込んだような急造りに思える棺の設置状況がその様子を物語っています。
二上山山麓の磯長谷、北から伸びる丘陵の先端部南斜面に南面して築造されています。
7世紀後半、古墳時代終末期築造。
直径54・3m、高さ7.2mの円墳。
現況は南北43m、東西53m、高さ11mの楕円形。
墳丘は3段築成ですが1、2段目は墳丘北側を未完周。
埋葬施設は横穴式石室で南方向に開口。
玄室内部には棺台3基。
棺台周辺では夾紵棺片の残存を検出。
■結界石
墳丘裾周囲に後世に改変された梵字のある2重の列石。
■中段結界石
448基。
1225年(嘉禄元年)以降列立し、1716-36(享保年間)内側中段に据え直されたと考えられます。
■下段結界石
478基。
1734-62年(享保19-宝暦12年)の年紀を確認。
信者寄進により修築された外側下段の列石。
鎌倉時代以降、墳丘を民墓として利用されていた形跡をも検出。
五輪塔、宝篋印塔、蔵骨器、骨片などを確認。
■後嵯峨天皇皇后 姞子分骨所
■制札
宝篋印塔1基、五輪塔2基。
■分骨所碑
後嵯峨院天皇中宮 大宮院藤原姞子御分骨所
1225年(嘉禄元年)以降、中段結界石の列立。
1348年(貞和4年)太子御廟に高師泰の兵が乱入狼藉。
1734年(享保19年)以降、下段結界石の列立。
1790年(寛政2年)東本願寺の乗如が石室について記録。
1844年(天保15年)御霊屋建立。
江戸時代までは石室内に参拝可能でした。
1875年(明治8年)聖徳太子の墓に治定。
1879年(明治12年)宮内省による石室内部調査。
その後コンクリート造により入口閉鎖。
1999-2002年度(平成11-14年度)中段結界石の保存処理に伴う調査。
2004年度(平成16年度)下段結界石の銘文調査、御霊屋内の燈籠等の現状調査。
2005年度(平成17年度)御霊屋屋根葺替等の工事に伴う棟札調査。
2007年度(平成19年度)墳丘地形測量。