■解説板
北東側から墳丘へと伸びる1本の道があります。
高市郡明日香村真弓字カンス塚にある真弓鑵子塚[まゆみかんすづか]古墳
6世紀中-後半築造。
6世紀後半までに数回追葬された痕跡を確認。
明治時代ウィリアム・ゴーランド(英国)が北側開口部より石室調査。
1913年(大正2年)羨道部調査により南側開口。
1963年(昭和37年)末永雅雄氏を中心とした後期古墳研究会により石室内土砂搬出。
2007-08年(平成19-20年)史跡指定を目指し発掘調査実施。
踏み跡を確認しながら左へ巻きます。
すぐに発見できました。
■南側羨道
羨道長5m、幅2.26m、高さ2.28m。
この足元には3列の羨道閉塞石が保存されています。
両脇には羨道側壁の岩が剥き出しに。
■南側開口部
さすがに石室内には進入しませんが、扉より写真撮影。
■玄室
正面奥に陽の差している開口部がありますが、奥室部分のようです。
石英閃緑岩製。
穹窿[きゅうりゅう]状(ドーム状)の片袖式横穴式石室。
玄室長6.33-6.5m、幅4.23-4.4m、高さ4.3-4.8m。
全長19m、全国最大級28㎡
丸山古墳34㎡に次ぐ広さで、石舞台古墳26㎡を上回る広さ。
玄室の壁面構成は巨石を6、7段積み重ねています。
3段目以降は急激な持ち送りとなり、天井石は3石を架構、ドーム状を呈しています。
今度は右側、東~北へと回ります。
玄室西側袖部、奥室には二上山凝灰岩製の家形石棺2棺、他に吉野川流域緑泥片岩の組合式石棺1棺、木棺1棺が存在したと考えられています。
踏み跡を伝って、左に振り返ると少し上にありました!
■北側羨道
羨道長3.9m、幅1.92m、高さ2.35m。
ここが陽の差していた北東側開口部。
この北側の附属部分は羨道か、あるいは奥室なのか・・・・
入口部分に閉塞石が遺存していたことから、確かに羨道の役割を果していました。
羨道状の施設であり、かつ特異な奥室的構造、機能を併せ持つようです。
更に北~西へと回ります。
■墳頂
墳丘北、南側には地震による地滑り跡、玄室床面、側壁には複数の亀裂が生じています。
再び北東側。
東側。
真弓鑵子塚[カンス塚]の案内。
左下が真弓鑵子塚、右上の道が牽牛子塚への分岐です。
分岐脇の地蔵尊。
南東側。
南側。
直径約40m、高さ約8mの二段築成の円墳。
ミニチュア炊飯具、簪子[かんざし]などが出土、東漢氏[やまとのあやうじ]の墓域と推測されています。
東漢氏は渡来系氏族の氏寺、檜隈寺[ひのくまでら]を中心に活躍した技術者集団。
古墳築造当時は、蘇我氏と共に活躍していた頃でしょう。
西側。
北西側。
北側。