中世以降、当麻寺の曼荼羅信仰の中心となっている国宝本堂です。

曼荼羅堂、西堂とも呼ばれます。

 

 

寄棟造、本瓦葺( もとは木瓦葺 )。

桁行七間(正面21.02m)、梁間六間(奥行18.06m)。

 

堂内は梁行六間のうち奥三間分を内陣、手前三間を礼堂としています。

内陣は須弥壇上に高さ約5メートルの厨子(国宝)を置き、

本尊の当麻曼荼羅を安置しています。

 

左右(南北)端の桁行1間分は局(小部屋)に分け、

北側西端の間には織殿観音と通称される十一面観音立像を安置。

 

背面北側の桁行3間分には閼伽棚(あかだな)が付属。

通常の棚より、むしろしっかりした部屋の形状をしています。

 

本堂には古くからの歴史が受け継がれています。

 

前身堂は「千手堂」と呼ばれていました。

 

 

 

奈良時代 第一次前身堂建立。

桁行七間、梁間四間、切妻造、掘立柱建物。

二重虹梁蟇股の架構は天平様式。

 

平安初期(9世紀)当麻曼荼羅を安置するために第二次前身堂に改造。

桁行七間、梁間四間、寄棟造、檜皮葺あるいは板葺。

当麻曼荼羅を収めるために桁行三間の広い須弥壇と、巨大な国宝厨子

(天平:729-749)を設置。

 

1161年(永暦2年)前身堂を改築。

庇前面に孫庇を付加し、外陣(礼堂)を拡張することで本堂形式に移行。

桁行七間、梁間六間。内陣は第二次前身堂を踏襲。

 

1268年(文永5年)屋根修理及び改造。

堂裏に閼伽棚付設。外陣に格天井を張り、南北の庇を小部屋に分割。

 

 

1180年(治承4年)興福寺の末寺であった當麻寺は平重衡による南都焼討に

会いましたが、本堂、東西両塔は奇跡的に難を逃れています。

 

平安末期、各地の氏族が没落する中で永らく健在であった當麻氏も

ここにきて衰退していきます。

そして同時に庶民に人気の浄土信仰の寺へと変貌していきます。

 

その中心がそう、この本堂です!

 

 

ここで素朴な疑問が湧いてきます。

 

通常は本堂があれば金堂は無し。

金堂があれば本堂は無し。

・・・・・・・という解釈でしたが、

 

上代寺院制の伽藍形式において中心である金堂が存在しながら

本堂という後世の伽藍がまさに併存しているこの状況!!

 

なぜかと言われても???(笑)

 

しかし古い伝統を保持しつつも、中世の信仰形態の変化にも適応して

いくという過渡期に見合った着地点としての選択だったのでしょう。

 

 

 

 

正面中央五間には板戸、両端下部には引違格子戸、上部に連子窓。

 

 

 

垂木は2軒、組物は平三斗、間斗束を中備に入れています。

 

 

北面。

 

側面には引違格子戸、蔀戸、連子窓。

 

 

 

 

北西側。

 

 

西面。

 

 

 

1268年(文永5年)本堂西側背後、北側三間に閼伽棚(あかだな)を増築。

仏に供える花や閼伽桶・閼伽坏などを置く棚のことです。

 

閼伽棚とはいえ、三間もの堅固な閼伽井屋状の部屋を付加。

 

閼伽棚の屋根には貴重な木瓦葺(流板葺)が境内で唯一残っています。

 

閼伽棚の蟇股。

 

 

南面。

 

 

南東側。