昨日の続きで宮大工の小川棟梁の話しだ。
宮大工は決して教えない。学校の先生とは違う。例えばカンナがけは「こういう削り
屑がでるようにしろ!」といわれる。見れば向こうが透けてみえる、それを窓に貼り付
けて1年位練習する。企業は即戦力を求めるが、棟梁は大学出と中学出が入門を
希望したら中学出を選ぶそうだ。大学出は体が出来ていないからすぐ疲れる。疲れ
るからすぐに頭で考えようとし、効率よい方法を選択する。その場は良いが愚直に
一段一段上がってきた人間に、10年後には抜かれるだろう!
大学出はよそでもやっていける能力があり、それが邪魔になるのだ。外の世界と
自身を比較できる、逃げ場を持つ人間は修業に耐えられない。一方、世の中を知ら
ない中学出は首までどっぷり大工の生活につかり、言われたことを実直に身につけ
下手は下手なりに一生懸命やるだけ、たまに「こういうやり方もあるぞ」と示唆すると
10倍も100倍も伸びるときがあるという。
「教えない」というのは単に教えないわけではないという。学ぼうという雰囲気が
ある時こそ放置しておくのだそうだ。 学校では生徒に学ぶ雰囲気がないか
らこそ先生が教えざるを得ないのではないかという。
実は教える側も、教えてしまった方が目先は楽だ。教えないのは忍耐がいる。教え
れば30分で出来ることを、放っておけば2日も3日もかかる。しかし、弟子は教えら
れてしまったら、その範囲しか出来ないしそれ以上を目指そうと思わなくなるという。
昔・機械もないのに巨大な東大寺を作った奈良の宮大工達には、作ることが可能だ
という揺るぎない信念があった。その精神力を養うには、教えたらいかん。
小川棟梁の一嘉言であった。