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Punipuny HighJink Zephyrぷにぷに

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津和野城  1324年に完成した標高362mの霊亀山上にある山城。

 

築城は1282年代(鎌倉時代・元寇翌年)に山陰沿岸防備の為に津和野に赴任した吉見氏が、1295年に築城を開始。1324年(後醍醐天皇の倒幕計画が露呈した年)に完成した。

 
大内氏に従っていた吉見氏は、1551年に大内義孝を滅ぼした陶晴賢と1553年から交戦。
1554年3月~8月の5ヶ月以上、津和野城(三本松城)籠城戦を行った。
時期は厳島合戦前の時期。大内氏から離反した毛利元就が大内義長を奉じる陶に対して安芸方面で攻撃を激化させており、津和野城(三本松城)は落城することなく吉見氏は大内・陶方と和睦した。
 
和睦後、大内軍は山口へ戻り、陶軍は厳島合戦へ向けて岩国方面に侵攻していく。
 
1555年の厳島合戦で毛利氏が勝つと吉見氏は元就の防長経略に貢献。毛利氏の傘下となって阿武郡を手に入れている。

1590年代、豊臣秀吉の政権掌握に伴い、吉見氏は毛利氏家臣として朝鮮出兵に出陣するなどしたが、1599年以降、毛利氏から様々な制限を受けることになる。
 1600年9月の関ケ原合戦後に毛利氏が防長2ヶ国への減封により、吉見も長門の一部を治めることになった。津和野については関ケ原で功労のあった坂崎直盛か津和野3万石に封じられた。
 
 吉見広家は同じく長門の基盤とする益田氏との待遇格差に不満を覚え、徳川直属の独立大名を目指して毛利家を出奔。これに対し毛利の対応は厳しく、1618年(江戸時代)毛利輝元の家臣により襲撃され石見吉見家は滅亡した。
 
津和野城は、関ヶ原の戦い直後の1601年(安土桃山時代末期・江戸時代直前)坂崎直盛によって、高石垣を有する近世城郭へと大改修されている。
 
1617年 坂崎氏に代わり亀井政矩が津和野藩初代藩主となり、亀井家が明治時代まで津和野を治めることになる。
津和野城 本丸・二ノ丸・三重天守と櫓は、1686年の雷火で消失し、再建されなかった。
 
津和野藩参勤交代の際には広島藩の廿日市・桜尾城近くに御船屋敷を設け、大阪までは海路を使った。
 
江戸中期には紙=石見和紙や新田開拓で豊かであったが、後期には凶作により財政が悪化した。
 
 
1867年(明治維新直前)捕縛された長崎の隠れキリシタン158名が津和野に流刑となる。
 
(上記の文は各方面の資料を参考にして、私がまとめたものです。不適切な語句や誤りがあるかもしれませんがご容赦ください。)
 
 
 
 

 

 

 

 

 

(2012年05月撮影)

 

 

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