最近、私はとても調子が良いです。
調子が良いのには、理由があります。それは、愛と恐怖についての真理を理解したからです。勿論、今の理解は自分が成長するに伴って更に進化するでしょうが、今の私にはとてもピッタリな理解です。せっかくですので、書き留めておこうと思います。
愛とは何でしょうか。
- 受け止めることです。
恐怖とは何でしょうか。
- 抵抗することです。
たったそれだけのことなんだと現在34歳の私は感じています。
何も、全てを愛して、全てを受け止めて、それで降伏状態で「何もするな」と言っているわけではありません。
大事なことは、ありのままを受け止めないことには、スタートラインにすら立てない事実です。恐怖の影響で、誰か・何かに抵抗していたら、客観的に物事の全体像を把握することすら出来ませんから。
受け止めて初めて、対処が出来るのです。
そこで、愛する、つまり受け止めるためには、どうしたら良いでしょうか。
余計なことを考えないようにすれば、全てのありのままを受け止められます。
情報過多の現代においては、情報や刺激が多い分、邪念も比例して増えるのが難点です。(今の時代、僧侶の多くですら、邪念だらけです。苦笑)
全てのありのままを受け止めるというのは、大変な作業だと思うかもしれませんが、全く大変ではありません。極めて簡単です。
というのも、受け止める対象は何も膨大な世界そのものではなく、自分の思考と感情のみだからです。その理由は、自分が全てを受け止める際のフィルターだからです。
私達のような肉体を持つ人間は、身体のセンサー(感覚)を通して体感することで、様々なことを知覚します。ですが、私達は、自分以外の人や物事そのものを受け取っているわけではありません。刺激そのものではなく、それらについての解釈を受け取っているのです。自分自身についても同じで、自分の中で起きる反応そのものではなく、それが自分にとって何を意味するかという思考回路や化学物質回路の結果の部分である解釈を受け取っています。
抽象的でわかりにくいでしょうから、例を出します。
例えば、私は今夜更かしをしています。もう、夜中の4時です(笑)。
私の心の中から、「今寝てないといけないのに!」「また朝起きるのが遅くなって自分が苦しむのに!」と自分を責める声が聞こえて来ます。
その声から生き方を学ぶのも大事なことですが、今回は話の種類が違うので、触れません。
この自分を責める声とは何かと言うと、自分や自分の引き起こしている現実に対する抵抗です。何故抵抗しているのでしょうか?恐怖を覚えているからです。具体的には、自分の健康を害しているという罪悪感に起因する今後健康を失うことへの恐怖や明日の過ごし方の失敗についての恐怖といったものです。
言うなれば、今の自分に対して、自分で通知表を付けて、自ら自己評価やジャッジ(判断)といった解釈をしておきながら、そこから導き出されるものに怯えているようなものです。
では、この状況や今の私自身を受け止めて、愛するにはどうしたら良いでしょうか。
ステップは3つです。
①自覚する
②どこに違和感や不快感を抱いているかをイメージする
③自覚した内容に抵抗せず、或いはそれと戦わず、自分の自覚内容を「それで良いのだ」と許す
まず、自覚するというのは、こういうことです。
私は今、不快感を感じています。(夜更かしをしているという)自分や現実に抵抗しているからです。同時に、連想によって、今まで夜更かしをした結果が悪かった経験が警告のように思い浮かんできます。
そこで、「自分はああだこうだ」という評価の工程を始めずに、単純に、その今の自分の状況を理解し、把握します。
次に、違和感や不快感の位置を探します。要は、身体の中で緊張している部位を探すということです。循環の滞っている場所を探すわけです。
そして、緊張のある自分に気付き、単純に理解します。何の解釈も必要ありません。(これだけで恐らく緊張がほぐれるケースもあるかと思います。)
最後に、それを許す作業を行います。それは、今の状況にある自分を責めたり、「こうであるべきではないのに」という感じで現実と戦うようなことを一切行わないということです。
「それはそうなるよね」、「そんなもんだよ」、「それで良いんだよ」、と息を吐いて力を抜くのです。
なるべくして、今があることに納得しましょう。
そこには、良いも悪いもありません。全ては良くも悪くもあなたの勝手な解釈ですから。
自然に生まれる解釈への過度な執着は控えましょう。解釈というのは、言わばストーリーです。他者に話す時や自分の中で思い出す時のお話です。
それにこだわり過ぎると、「その話に沿っていないといけない」と思い込み始め、他者の観点(=自分の持っているもの以外のストーリー)を耳にした時に恐怖心を抱くことになります。そして、抵抗します。人間関係も悪循環に陥ります。
反対に、恐怖心や邪念を抱くことなく、自分・全てを受け止めていたら、執着心は消えるものです。真に受け止めることが出来たら怖い物はありませんので、「そんな感じだよね」、「こうだけと、こういう道筋もあるかもね」という、アバウトで可能性に満ちた感覚で許容出来るようになります。
それによって、寛容な心を持てるようになります。余裕が生まれます。運が入って来ます。好循環に入るわけです。
「本当はこうしたいけど、今の状況ではベストを尽くしたらこうなったんだ」、「前にこうなった時はその後苦しんだけど、今回がそうなるとは限らない」、「なるべきようになるさ」、「何か意味があるんだ」、「結果的に色々と学ぶわけだから、成長しながら良い方向へ向かっているんだ」と自分で知っていれば、もしくは自分で決めていれば、抵抗する対象がなくなりますので、自分の中での戦いはその場で即座にストップします。
自分が大丈夫であると決まっていれば、どうしようと迷うことも、不安になることも、自分を責めることもないのです。そして、あなたは楽になります。リラックスします。リラックスして良いのです。あなたは大丈夫なのです。
因みに、そこで緊張がほぐれなくても良いのです。そういうあなた自身をあなたが受け止めることが何よりの目的ですから。あなたが、自分のあり方や自分が感じていること(感覚・ストーリー)へ抵抗することこそが、あなた自身を苦しめるのですから。自分で自分に抵抗するからツラいんです。
抵抗して苦しんでいる自分に鞭打つのではなく、苦しんでいる自分に気付いてあげましょう。
私を含む自己免疫病の人達は、ここへの認識が重要な鍵なのではと思って、私は自分の身体で実験中です。
自分だけではなく、他人を愛する時も同じです。
他人に向かって「愛している」と言いながら、相手に注文や文句を付ける人というのは世の中の大半です。それは愛とは言いません。エゴと言います。相手を受け止めていないどころか、相手を見ているのではなく、自分を見ているのですから。
一方で、熟年夫婦がお互いに諦めを抱いて、一見冷め切ったような関係こそが、意外に本当の意味で愛し合っている関係であったりします。お互いのどうしようもない部分を笑い合えるなら、もっと良好でしょう。
経緯はどうであれ、お互いのありのままを受け止めているのですから。
愛や恐怖というと、壮大なスケールの話に聞こえますが、実際は、人や物事を受け止めるか否かだけの話です。特に自分のことが「こんな人だ」と、何の評価もせずにありのままで受け止められると、自分以外の人のことも受け止められるようになります。私達は、互いに鏡のように映し合う(投影し合う)存在ですから。人間とは、本当に単純なものです。心の内が外側に全て表れるのです。
周りに恐怖ベースの反応をまき散らしてしまう人には、是非とも自分を受け止める決心をして頂きたいものです。
今の私が思うに、私達のような肉体を持つ人間が持つべき解釈は一つです。
「全てはお導きである」ということです。(行動としては、その都度その場でベストを尽くせば良いだけ。)
宗教めいて聞こえるかもしれませんが、これは単純に物の解釈の仕方なのです。
というのも、私達は、現在など、見えているものに恐怖を覚えると、それにとらわれます。そこに執着します。それで、オープンに物事を捉えることを忘れ、全体像へ盲目になります。そして、判断を誤ります。悪循環に陥ります。
ですが、実際は、「結果的に大丈夫だ」と分かっていれば、何の恐怖も感じる必要はないわけです。なるべきようになるのだと自分で知って、自分の道に自信を持っていれば、一喜一憂する必要はありません。結果がわかっているのですから。ハッピーエンドだとわかっている映画を見ながら、ホラー映画並みの恐怖を味わうのは難しいでしょう(笑)。それと同じです。
私達が生きていく中で抱く様々な思考や感情というのは、サバイバル、生き抜くためのものです。全体では、進化していくためのものです。
つまり、私達が導き出したい結果というのは、サバイバル、生き抜くことです。
なので、今を生き抜いていれば、それで結果オーライなのです。
だというのに、無駄にあれこれ考えて、自分を責めたり、自分を疑ったりしてしまうから、迷いや恐怖といった邪念が生まれ、その思考や感情がパターン化し、滞り、物質化し、病気になると考えられます。これでは、もはや、何のために生きているのかわかりません。というか、それがわからないから、そうなってしまうのでしょう。
恐怖を感じ、緊張が続けば、循環が上手く行われず、調子がおかしくなるのは誰が考えても常識的にわかるはずです。
ただ、生きていれば良いのに、どうして、それを人間は複雑に見てしまうのでしょうね。社会を形成し、発展したが故の負の産物でしょうか。なかなか社会基盤が変わっても、根本的な部分では人間はすんなりとは適応しないということなのかもしれません。
愛や恐怖といった感情の原理を理解し、自在に操れるようになる進化が必要です。感覚や知覚を研ぎ澄ましたいものです。
その第一歩として、決心をすると良いでしょう。
決心というのは良い言葉だと思います。
心を決めてしまえば、怖いものなしです。
心を決めてしまえば、こっちのものです。
迷いを断ちましょう。そうすることで、恐怖を断ちましょう。
邪念は人を道から外していきますが、信念は人に力を授けます。
自分を怖がらせることをやめれば、滞りが消え、あなたの中の波長が調和します。
気にかかる障害が決心によってなくなれば、意識が散漫することがなくなり、集中力が高まります。こうして、全身全霊を統一させることが出来ます。
また、あなたは自分以外の人や物事に頼る必要はありません。あなたが自分のありのままをフルに受け止めさえすれば、自分の内側からエネルギーが途切れることなく溢れて来ることでしょう。自分を否定する存在が消え、自分の生命力の強さを感じるわけですから。
こうして、好循環に入ります。
「全てはお導きである」というのは、人によっては受け止めがたい考え方なのかもしれませんが、神々やご先祖様といった見えない世界(霊界)は存在しています。
それが正しい言葉での表現なのかはわかりません。ですが、目に見えない世界は存在はしているのです。
抵抗をやめることで恐怖を手放せば、見えない世界をも受け止められます。降参してしまえ〜!
怖がらず、愛に浸れば、楽になりますよ^^
少なくとも、私はこのような発想を習慣付けたところ、とても調子が良くなり、物事の展開もすこぶる良くなりました!疲れ知らずです!無駄に評価せず、ただただ受け止めるのは私を楽にしてくれます。変な所で戦っていた自分に気付けるようになったのは、本当に人生のプラスです♡
また、自分の心身を自在に操れると思うと、未知なる可能性をも感じます。
私はアップダウンの激しいタイプなので、一時的ではないかどうかを含めて、今後も冷静に様子を見るようにします。
生き方の要領を捉えるのは面白いですね。
それでは、今回はこの辺で。