先日、「▶︎「理不尽」な思いをして育った大人達への処方箋」という投稿をしました。

今回は、この「理不尽」な思いの背景にある「中毒」の存在を学びましたので、皆さんにお伝えしようと思います。

 

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私達に「理不尽」な思いを感じさせるもの・・・

それは、ずばり、・・・

 

正しさ中毒」です!

 

もう、これだけ書けば、十分ではないかと思う程ですが、丁寧に説明していきます。

 

まず、理不尽な思いをする時には何が起きているのでしょうか。

きっと、自分の中にある「こうなんだ」、「こうあるべきだ」、「こうであるはずだ」、「こうでなければならない」、「こうに違いない」、という絶対的な考えが、外から圧迫されて、結果的に物理的に否定されているという状況だと思います。その際に、「理不尽だ」と感じます。

 

自分の中での絶対的な考えが物理的に否定されると、反発しようとするのが人間です。サバイバルですから。押さえ付けられたものは、反発して生きようとするという自然の摂理です。

 

しかし、ここで実際に起きている図式とは、あなたが最善を尽くそうとする際に、自分の考えや情報をベースにしているという状況です。

最善を尽くす際のデータベース・参考資料が、あなたの考えです。そして、その考えとは、あなたの遺伝、経験、情報の質と種類、人脈、財産、能力、体力、感覚といったものから構成されています。

 

あなたがベースにしている考えというのは、則ち、あなたの「信念」であるのが真実です。

つまり、簡約すると、自分の信念をベースとして生きている所に他者の信念との衝突が発生して、屈服して、諦めが付かずに抵抗をし続けることが、理不尽な思いのレシピです。

 

結局、理不尽な感覚というのは、信念の問題なのです。

あなたにとっても、他者にとっても、信念の問題でしかないのです。

 

でも、ここで、どちらかが正しく、どちらかが間違っていることはあり得ません。

あなたにとっても、他者にとっても、貫き通したい信念とは、あなたの見ている・あなたの生きている世界においては、絶対的であり、100%正しい考えだからです。

ただし、問題があるのです。それが他者には当てはまらない点です。

 

自分の中では100%正しいことが、何故他者の中ではそうではないのでしょうか。

それは、皆それぞれが同じ世界に生きているようで、実際には別の世界(次元・現実)を生きているからです。一人一人、生きている世界が違うのです。

 

何故、私達の生きている世界が違うのでしょうか。

それは、上に述べた人生のデータベース(遺伝、経験、情報の質と種類、人脈、財産、能力、体力、感覚等で構成)が違うからです。

このデータベースとは、あなたの人生の価値観」の材料です。それぞれの要素が互いに紐付けられ、価値観が出来上がります。

 

もう少し細かく説明すると、AIやプログラミングをイメージしてもらったらわかると思いますが、私達は、経験や感覚・情報から読み取ったパターンである、こう来たら、こういう結果」という因果関係の式(紐付けられた条件)を意識・無意識的に自分のデータベースにインプットしていくわけです。こうして出来上がった価値観こそが、あなたの信念を作り上げるのです。

 

様々な人生の境遇要素が紐付けられて構成された価値観・信念(各々のデータベースを基に算出)の違いが何を更に生むのかというと、受け取り方の違いです。

ひとそれぞれの価値観・信念が、人それぞれの世界の絶対的な前提条件(設定)となり、物事を測る「尺度」となるためです。

 

複数の人達が同じ物を見聞きしたり、同じ物を好き好んで楽しんだりするとします。一見、同じことを同じように受け取っているように思うかもしれませんが、一人一人の絶対的な前提条件や尺度(見方が違うわけですから、例え同じ情報や経験を得たところで、その処理方法(受け取り方)は違うわけです。

 

一人一人、物事の紐付けられ方は違います。つまり、人によって、何が何を意味するか」という受け取り方は違います。あなたが想像も付かない因果関係やバックグラウンドである要素がそれぞれの人生に存在するからです。

こういう理由で、当人に十分確認することなく、一概にジャッジ(決め付けをすると、お互いに悪循環に陥るわけです。

 

これが何を意味するのかというと、「あなたの生きている世界で100%正しいことが、別の人の世界では間違っている」ということが、当然に起きる現象であることです。寧ろ、これだけ人間のスタート地点から分岐を重ねた現代において、価値観が同じことの方が奇跡なのですから。

 

ですから、冒頭に述べた「正しさ中毒」の人は、どこででも不満を募らせることになります。
自分を信じていれば信じている程、人は自分が正しいと思います。しかし、そんなに正しいことが他者の世界では正しいとは認識されないとなると、人は自分を守るために、更に自分が正しいと主張を始めます。誰にとっても、日常茶飯事な光景ですね。

しかし、考えてみて下さい。これまで述べたように、あなたは、正しいんです(笑)。でも、ポイントは、同様に他者も正しい点です。

どんな悪党にさえも、必ず因果関係があります。そうなるべくして、そうなっているのです。それが彼等にとっての信念の基に追い求めた真実なのです。

 

こういう場合での特効薬は、2つあります。

コミュニケーション」と「自律・自立」です。

 

まずは、コミュニケーションですが、お互いを理解し合おうという漠然としたことをしようとせずに、お互いの価値観を理解し合うことが鍵です。お互いの生きている世界の中で、物事がどう紐付けられているのか、お互いの世界の前提設定を理解しない限り、互いを理解することは出来ません。

 

そして、次に、同化することを求めないことが鍵です。

日本には「和の精神」の文化があります。これは、互いがドロドロと混ざってしまう同化を指すのではありません。それぞれの自律・自立をもって、調和することなのです。

同化でもない、はたまた、個人主義のような孤立主義でもない、「」こそが古来からの日本人のあり方であり、古来から受け継がれる理由がある程、私達を生かしてくれる方法なのです。一人一人に然るべき使命や能力が与えられているが、個人プレーをするのではなく、調和を図り、それぞれが各々の力を持ち寄ることで協力してコミュニティを形成する「役割分担」に表れたあり方です。

自分の世界に引き入れようとしたり、自分の価値観や尺度を押し付けようとしたりするのは、御法度です。

 

そもそも、あなたがもしそのような衝動に駆られることがあれば、それは相手の問題ではありません。あなたの「孤独感」の問題です。そして、それは自分自身との距離の問題です。

何が起きているのかというと、まず、あなたが孤独感を感じる時とは、恐らくあなたが何らかの誤解をされている・理解されていない・評価されていないといったことを感じる時だと思います。それで、世界が自分の敵のように感じ、自分の仲間を増やそうと必死になります。

しかし、実際は、「ありのままの自分を受け止められていない」、「自分が不十分であるように感じる」、「自分の正しさを十分感じられない」、「自分を疑っている」、「自分に自信がない」、といった、自分をいじめる・責めるような思考をしている時に、あなたは孤独感を感じているのです。そして、あなたが敵のように感じている、その世界を作り上げているのはあなた自身です。自分の仲間をどうにかして増やそうとするのは、自分を他者に投影して、他者を思い通りにすることで自分を思い通りにしたいという逆輸入型の自己説得法であり、説得材料のための行為です。

別の言い方をすれば、孤独感の原因とは、他者との違いに「寂しさ」を覚えていることなのです。何故違いに寂しさを覚えるのでしょうか。他者から理解されないからではありません。寂しさを覚えるのは、どこかで「自分より他者が正しい」と思ってしまい、自分自身への信頼が揺らぎ、本来の自分(魂、ハイアーセルフ)が悲しんでいるからです。この悲しみを乗り越えるために、ある人はアルコールやタバコに走るのでしょうが、またある人は「正しさ」に走るわけです。

 

ですので、そういう場合は、自分を信じるという方法もあるかもしれませんが、それは枝葉の話ですので、根っこである前提を見直すのが一番です。

 

その前提とは、

「私達は、皆それぞれ、違う現実を生きている」ということです。

同じ場所に生きていても、違う現実を生きているのです。

 

違う現実同士を同じ物だと混同して、違う現実の正しさを主張してもどうしようもありません。日本でラーメンをすするのは美味しそうに聞こえるものですが、海外では下品とされるのが良い例でしょう(笑)。

このような混同によって、人間は無駄に苦しんでいます。

 

近年、「馬鹿を相手にするな」といった打ち出しや主張をよく見かけます。

正直、私もよくそういった気持ちにはなるのですが、そろそろ、スタート地点を見直す時なのではないでしょうか。

というのも、「馬鹿を相手にするな」という議論の真髄は、別の世界・次元・現実に生きていることをお互いが受け止められていないことを意味しているからです。この点が私達の常識でないことこそが諸悪の根源なのです。

いちいち、どちらが頭が良い・悪いと批評をする必要はありません。(人を頭が悪いと思いたくなるのは、そもそも、自分が評価されていないと感じることへの不満ですから。)

単純に、種類が違うという話です。違うから、どちらが良い・悪いというわけではありません。世の中は、ミクロの世界からマクロの世界まで、「バランス」で保たれているからです。それぞれに存在意義がある前提を受け止めたら済む話なのです。何がどこでどう役立つか・役立っているかは、計り知れません。

 

私は、政治に興味がありますが、政治も同じです。

皆、枝葉の話ばかりをして、根っこの部分を考えようとしません。

本当に一番の根っこ部分に行くと、私達のコアな問題は、自分自身の仕組みを知らないことなのかもしれません。悪党も含めて。悪党が悟りの境地に達成して自分自身を十分に知るような機会があれば、悪党を辞めるでしょう(笑)。そんな選択はしないでしょうが。

 

でも、それが悪いことなのかというと、実はそこに私は美を感じます。それが人間ですから。面白い生き物なんです(笑)。

場所は同じであれ、違う次元に生きていて、本来絡むはずのない、それぞれの中で正しい仕組みが絡まり合って、あーだこーだ言っている。平行線の夫婦喧嘩でも思い浮かべてもらったらわかると思いますが、ガチャガチャやっている時が実は生き甲斐を感じている時だったりするのですよね。どちらかが他界すると、どんなに憎々しくても寂しがるでしょう。喧嘩していた時のことを笑って思い出すでしょう。

噂話やドラマ&ドラマのような話も皆、他者を経由してでも好きなものです。

そういった感覚を楽しみながら、ありとあらゆる経験を重ね、物事の仕組みを解明し、進化・拡大するために私達は生を受けているのではないかと私は思っています。何でも上手く行く、何の障害もない世界は、飽きますから。

「やりがい」、「生きがい」とは手応えがあって初めて感じることです。

 

自分自身の仕組みを知らないという根っこの問題について少し触れましたが、神棚や、神社には、私達を映し出すがあります。

日本人とは、潜在意識的に、全てを理解していると思います。

 

私達は、互いに映し合う存在です。

そこに見るものを、怖れずに、捻じ曲げずに、素直に見ることが出来たら、本来の自分を見るということになります。そうすることで、一番喜ぶのは、他でもない、あなた自身です。

映し出されるものを見ながら、自分自身を知り、様々な要素をデータベースに追加していけば、豊かになり、成長・進化・拡大を遂げるのでしょう。

 

※写真は、昨日描いた絵です。自画像です。こう見えるわけではありませんが、このように「感じ」ます。私の世界とは、こういう世界です。