昨日は2019年初めての新月でした。「新た」な「月」の始まりです。※最高潮に達するのが「満月」。
新月を迎えるにあたってのブログ投稿をしたかったのですが、今回は「山羊座の月」のパワーでしたので、仕事をバリバリやって、限られた時間の中で結果を出そうと動く力が働くわけです。それで、書くタイミングがありませんでした^^; 皆さんがこれからの決意やお願いごとを意識していると嬉しいです。

さて、1日経った今日は、年末から今のタイミングで私の中で見えたことの一つをお伝えしたいと思います。悟りが多過ぎて、処理し切れていませんので、小出ししていきます(笑)

 

私は年末に体験した雲をつかもうとしているようなモヤモヤ感は消えましたが、年明けは色んなことを放棄して(笑)、心身共に休む時間を意識的に取ってやっと少し落ち着いたものの、今度は焦燥感のような物の存在を感じ取っていました。

 

頭はクリアだけど、何かを考え込んでいる。何かに気付いているけど、気付いていない。わかっているけど、わからない。何かを考えているけど、何を考えているのかわからない。・・・頭はクリアだけどそんな状態だったわけです。ごく一般的な人にこういう話をすると、「考え過ぎだ」と笑われそうですね。

でも、これはおかしなプロセスではありません。もし、あなたが、頭がクリアだけどクリアではない感覚になる時があったら、「私は今、顕在意識ではなく、潜在意識下で情報や思考を処理している状態だ」と自分に教えてあげて下さい。例えば、人間、ぼーっとする時がありますよね。何も考えていないわけではなくて、脳の思考を一部制御することで、潜在意識の方が活発に動いてくれているのです。そういうわけで、そのうちにひらめきを得るのもよくある話です。もしかしたら、何か受信しているのかもしれませんが!?

 

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前にもお伝えしましたが、私はこの年末年始から毎日占いをする訓練を開始しました。訓練と言っても、毎日3種類のカードを引いて、その結果を受け入れるという感覚に慣れるだけです。

というのも、私は、自慢にならないのですが「理屈の女」ですので、一貫した思考回路や道筋、裏付けの根拠がないと、物事を受け入れられないタイプなのです。そういった理性なるものが感受性を妨害します(笑)ですので、通常だと占いやスピリチュアルに向かないタイプではないかと思う程です。そこを認識しているので、ただ降伏して、「ありのままを受け入れる」心の訓練をしていると言えるのかもしれません。

 

それで、自分は何を今プロセスしているのだろうと疑問に思いながら、得るべきメッセージを今日も引いてみました。

結果はこうでした:

 

イシコリドメノミコトが、「耳を静かに澄ませ、異なる次元から響く鈴の音を聴きましょう。その音が聞こえるなら、私が差し出す鏡に映る、ありのままの真のあなたの姿を見ることができるでしょう。あなたの姿と心の美が映し出されていています。あなたの心の中にある湖もまた、波立つことなく鏡のように静かなのです」(解説本より)と伝えています。

 

これを経て、ハッと気付く自分がいました。「異なる次元から響く鈴の音」という言葉を受けて、私は、「常識」に捕われているどころか縛られている自分を見たのです。以前一度このカードを引いた際には気付かなかったのに!(後述します)

 

その反対に、タロットの隠者(逆位置)は「分別や常識に目を向け、相手を尊重する姿勢を」(解説本より)というメッセージを伝えていますが、そこで疑問なのは「誰の」常識かということです。だって、占っているのは私自身ですから。従って、「本来常にある自分のあり方に目を向け、自身を尊重する姿勢を」と私は受け取りました。

そして、オバーン色が「地に足をつけ、宇宙の叡智と繋がる」「今この瞬間にグラウンディングする」よう促しています。

 

これらのカードを引いて、私は一つの大きな気付きがありました。それは、私が「変」であることです(笑)。そして、それをフルに受け入れられていなかったことです。

冗談半分で私はよく自分のことを「変わり者」だと自己紹介でまず伝えるような人物です。それこそ、私の「個性」だからです。人からよく言われることですし、自分でもそこに自分独自の存在感という一種の喜びを持っているのです。

 

しかし!・・・「異なる次元から響く鈴の音」というメッセージは、私をもう一歩踏み込んだ所へ連れて行ってくれました。

というのも、例えば、私は記憶する限り少なくとも小学生の頃から、「7、8、9、10・・・」と気付けば自分の歩数や自分の行っている作業の回数を数えていました。意識はしていないのに、途中から数え出していた自分に気が付くのです。それを私はおかしいと判断し、「何やってるんだ、止めろ」と自分に命令して、抑え込んでいました。

 

そして、これも小学生の頃なのですが、時々歩いていると、「スタスタ」とリズム良く歩いているはずが、左足だけで「タッタタ」といったリズムを刻もうとしてしまって、すぐさま右もそれに合わせて「タッタタ」としないと気が済まない自分がいました。手でも同じです。それを私はおかしいと判断し、「何やってるんだ、止めろ」と自分に命令して、抑え込んでいました。

 

また、他にもよくある話ですが、気付けば脳内でよくリアルな音楽が鳴ります。これも自分で「今必要ないし、おかしいし、延々とうるさいから止めろ」と命令し、別のことを考えるなどして抑え込んでしまいます。

因みに、聴いた音楽を思い出すのは割と普通かと思いますが、去年から気付き始めたのは、自分が思考していることに関連する音楽を脳内でプレーしていることです。歌詞を辿るとそこにメッセージがあったりするのです。

潜在意識で、つまり無意識に考えていることでも同じ反応であることに気が付きました。活字であれ、イメージであれ、音声や音楽であれ、何であれ、「関連する情報」を持った媒体を通じて必要なことが私達に伝えられるのですね。

 

それで、今日イシコリドメノミコトのカードを引いて結局何に気付いたのかというと、私自身が自分を実はフルに受け入れられていなかったということです。自分が自分の持って生まれた設定の中で起こす行動を「おかしい」と判断し、批判し、止めさせていたからです。

つまり、自分らしさ、独自性、個性といったものを受け止めきれていなかったのです。何故なら、「常識的」におかしいと判断していたからです。常識という、形があるようでない、集合的で漠然なるものを、自分の中での確固たるあり方や仕組みより優先していました。「おかしい」と思うのは、「何か・誰かと比べて」そう判断するわけですので、それは、他者や多数派の方に合わせて自分へのリスペクトを削ってしまう行為です。

 

「イシコリドメノミコト」はまた、「セルフジャッジを手放す時が来ている」とも告げてくれています。

ジャッジ、つまり、審判的な行為は、生き抜く上で欠かせないものであるとは思います。ですが、物事にはやり方というのがあります。そして、それを越えて私達に欠かせないのは「自己愛」です。私達自身が、私達自身の最大の味方であるのが大前提なのです。時には、自分の人生において批判も必要でしょうが、それは、自分の起こす行為や取る方法に対してするものであって、自分のあり方である「アイデンティティ」に対して行うものではありません。

 

私達は、それぞれが、他にはない「アイデンティティ」を持っています。それは言わば侵してはならない聖域です。

それぞれが保守すべき聖域を持った上でパズルのピースが組合わさるように「一体化」することで、この世は力を発揮します。「一体化」する時に私達は喜びとしても力量としてもエネルギーを最大限に生成し、感知する生き物だからです。それが私達が地球に生を受けた理由です。こういった、私達全てが一つであるという観念を英語では「ワンネス」と呼びますが、要は「和の精神」ですね。

政治においての国境の議論もそうなのですが、「個」と、その中で保守されるべき重要なものがしっかりと存在しない限りは、地球上の私達は一つになることも、交流することも、存続することもないわけです。だからといって、恐れによって自分の聖域のお城を壁で囲んだり、武装して他者を攻撃したりするのは、一つになることを阻みます。欧米の高台にある城壁で囲まれた頑丈なお城のイメージより、お堀すらなく開かれた京都御所のようなものであるのが理想でしょう。

 

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「ありのままの姿を受け入れる」というのは、ディズニー映画でも流行った文言ですが、私達はどこまで本当にそれが出来ているでしょうか。※開き直りはちょっと違いますが、ここでは割愛します。

 

意識をすると、そこにエネルギーが注がれます。そして、化学反応が起きます。それが影響を与えます。

ですから、「気付いていない自分の部分に気付いてあげること」の重要性をあなたにお伝えするために、私は年末からこの過酷な精神のジェットコースターに乗せられていたのだと思います(笑)。私は皆さんへのメッセンジャーですから。あなたの全ての部分を細部に至るまで、あなた自身が受け入れて下さいね♡

 

メッセンジャーと言いましたが、私は自分が体験することがいずれ人の何かしらの役に立つことを思春期から実は理解しています。「生きている証を残したい」というのは、少し恐れベースのエゴではあるのですがずっと思っていることです。理解しているというより、そうでないとつらい想いを自分が経験する意義がないと思ったからかもしれませんが。

それは何も私が神の遣いというわけでなく(そうだったら面白いですが)、私達一人一人の「気付き」や「学び」を「共有」することが「知恵」のデータベースとなり、既存の「常識」や「時代」の前提を作り上げるものに加わって、後世に受け継がれ、変化し続けていくことを知っているからです。

 

日本人は「記録」をよく取る民族です。これほど「記録」を取る民族は世界中どこを見ても他にないのではと思います。SNS利用でも発信する文字量が多いことはよく指摘されますね。何故そんなに「記録」を取るのでしょうか?何のために取るのでしょうか?

日本人は、「知恵」というものが何なのかを昔から知っている、地球にいなくてはならない民族なのでしょうね。

 

どうか、自分を「変だ」「異常だ」「大丈夫か」と疑うようなことがあったら、自身のアイデンティティを否定せず、その体験のありのままを然るべき場所で共有して下さい。共有相手は合わない場合もありますが、めげずに合う相手を見つけましょう。必ず、誰かがあなたを求めていますから。鍵と鍵穴、凹凸のように。
あなたが学ぶべきことがあるならば、助けが得られるでしょうし、あなたの体験を知って助けられる人もいるでしょう。

 

あなたが今あなたでいることには、理由があります。

自分を許し、受け入れ、愛し、それによって知恵のデータベースという平和の素に貢献し、人生を全うして下さい。

 

それでは、今回は、この辺で。