2018=湊川まちぶら句会 | 神戸RANDOM句会

神戸RANDOM句会

シニアの俳句仲間の吟行・句会、俳句紀行、句集などを記録する。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 蕪村

台風が吹き荒れる洛外の風景に、1156年の保元の乱を重ねた句です。

後白河天皇と崇徳院の争いに、39歳の平清盛は源義朝とともに天皇側に加勢し、武士の世の幕を開けます。3年後の平治の乱で源氏を倒し、平氏全盛の時代に。

今年の夏は災害が続きました。6月の大阪府北部地震、7月の西日本豪雨、35℃を超える連日の酷暑。8~9月の台風は関西を直撃し高潮の被害も。9月には北海道で過去最大の地震。

モネやゴッホは北斎や広重の浮世絵を見て日本の四季に憧れましたが、この国で暮らすには、地震や台風の自然災害に耐えていくしかありません。

第28回神戸RANDOM句会は、「湊川まちぶら句会」。明治の治水事業で築造された「湊川隧道」を年に1回だけ通り抜けできる「新湊川ウォーク」の日に開催。このイベントに参加し、平清盛や楠木正成ゆかりの湊川のまちを歩きます。

湊川を歩く――――――――――――

集合は、11月11日(日)午前10時、神戸市営地下鉄湊川公園駅の東改札口。立冬は過ぎましたが、絶好の秋日和。いつもは静かな東改札口付近も結構な人出です。

 

本日の参加者は、さくらさん、だっくすさん、つきひさん、へるめんさんの女性4名。男性は一風さん、蛸地蔵さん、稲村さん、英さん、播町さん、ひろひろさん、見水さん、ろまん亭さんの8名で総勢12名。今日は、ここから地上に上がり、兵庫区役所からスタートです。

湊川公園-鳴呼と先づ左兵衛(足利直義)が泣いた湊川-

兵庫区役所の建物は、老朽化により兵庫公会堂と一緒に現在の南隣に来年の移転をめざして建替え中。その南側には一面の芝生の湊川公園がひろがっています。公園のシンボルの1935年に建った楠木正成の騎馬像は工事現場内に仮置き。公園の南側は新開地の入口です。

  

楠木正成は、青葉茂れる1336年5月、西国から攻め上る31歳の足利尊氏の大軍を迎え討ち、湊川で戦って敗れ、安養寺山(現在の大倉山)で自害。享年42歳。敵味方双方からその死を惜しまれます。正成の墓に1692年に水戸光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建て、幕末の志士たちは西国街道の往来時に碑に立ち寄り尊王攘夷を誓います。明治になって湊川神社を建立。境内ではいろいろな興行が行われ水族館も設置されて賑わい、「楠公さん」として親しまれますが、日本が戦争に向かう中で忠君愛国のシンボルになり、悲惨な戦争を経て、戦後は人気を失います。

吉川英治の私本太平記が原作のNHK大河ドラマ「太平記」(1991)で楠木正成を演じた武田鉄矢さんは、この役を受けるか迷った末、河内の気のいいおっさんとして演じたそうです。

湊川はかつて石屋川や住吉川、芦屋川と同様、六甲山地から運ばれた土砂で川が平地より高くなった天井川でした。湊川の付け替えで、川幅90m、堤防の高さが6mあった川の海側を削り、山側を埋め立て、1911年に湊川公園と新開地ができます。

新開地-あとかたもなきこそよけれみなと川 吉川英治-

新開地は吟行では寄りませんでしたが、句会が終わった後に歩きました。

ブラタモリでも紹介されたとおり、新開地本通りは海に向かってなだらかな坂になっています。

明治時代の神戸の地図では、海に突き出た旧湊川河口の川崎浜を真ん中に、和田岬から川崎浜までの「兵庫」の港と川崎浜から旧生田川河口までの「神戸」の港が扇を並べた形をしています。この二つの扇と神戸(カウベ)の「カ」を図案化して1907年に神戸の市章が制定されました。

江戸時代、兵庫津は北前船で栄え、豪商・北風家や髙田屋嘉兵衛が活躍します。川崎浜の東側は高浜と呼ばれ、和船の建造や修復を行っていました。

 

明治になると河口の東側(東川崎)に官営の造船所ができ、1886年に川崎正蔵に払い下げられます。1896年には株式会社川崎造船所になり、初代社長に松方幸次郎(1866-1950)が就任。砂と泥の軟弱な地盤を松杭で固めて乾ドックを建設し、1912年には長さ303m・幅44m・高さ50mの四角い巨大なガントリークレーンが出現。1962年に解体されるまで神戸港のシンボルでした。和田岬に三菱造船所も創業し、神戸は造船の街として活気づきます。さらに製鉄や鉄道車両の製造など、港を利用した重工業を展開。神戸の人口は急増します。

新開地には、1913年に「ええとこ、ええとこ」聚楽館が開業、1920年に湊川公園の下にトンネルができて市電が通り、1924年には高さ90mの東洋一の神戸タワーが完成。新開地は劇場や寄席、映画館、飲食店が建ち並び、神戸一の繁華街になります。

1936年に来日したチャップリンは、日本の映画のメッカ・新開地本通りを訪れます。震災後に建った向かい合う赤と青のモニュメント「BIGMAN」は新開地の南のゲート。通りに立つと帽子をかぶったチャップリンの姿が浮かびます。

   

戦後は進駐軍が新開地南部を接収。1957年に市役所が三宮に移り、テレビが普及して街から映画館が消えていくと、新開地も寂れていき、1968年の神戸高速鉄道の開業で地下で神鉄・阪神・阪急・山陽がつながり、1971年に市電が廃止されると人通りはますます減少。劇場や演芸場は閉鎖されてパチンコ店に。聚楽館も1978年に閉鎖し、跡地は2001年にラウンドワン(ボーリング場)に。

1981年出版の林喜芳さんの「わいらの新開地」は、神戸市消防局タウン誌「雪」に5年間連載したエッセイをまとめた本。1908年に東川崎町で生まれ、市役所給仕や印刷工、露天商、印刷会社の営業マンとして生涯のほとんどを兵庫区で暮らし、見聞きした新開地界隈の栄枯盛衰を温かく描いています。朝7時始業の造船所に押し寄せる勤め人の様子や、新開地に建ち並ぶ映画館の看板を見て歩いた楽しさなどの思い出がぎっしり。林喜芳さんは1995年の震災の前年に86歳で亡くなっています。

今年の7月には、上方落語協会と新開地まちづくりNPO、神戸市が協力して「神戸新開地・喜楽館」がオープン。客席は約200席で大阪の「天満天神繁昌亭」に続く関西で2番目、新開地では40年ぶりの上方落語の定席の復活です。昼の開演は近くの飲食店でゆっくり食事ができるよう午後2時から。出演する200人の上方落語家の中には、いまは無名でも鶴瓶師匠やさんまさんのような将来のスターがいるかも。家族連れや観光客で新開地が再び賑わって欲しい願いが込められています。

東山商店街-葱(ねぶか)買て枯木の中を帰りけり 蕪村-

吟行は、兵庫区役所から北へ歩きました。

「初めて連れて行ってもろた居酒屋、まだ残っとうわ」

一風さんは1966年に就職し、最初の4年間をこの街で過ごしました。今日の他のメンバーもそれぞれ思い出のある懐かしい街。東側に広がる町は荒田町。作家の田辺聖子さんがカモカのおっちゃん・川野医師とかつて暮らした町です。

 

   

東山商店街へ。京都は錦市場、大阪は黒門市場、神戸は東山商店街。テレビでもよく紹介されます。日曜日の午前中でまだ買い物客は少なめですが、新鮮な魚や野菜、果物が、いつものスーパーより安く、エッと思わず買いたくなります。漬物屋や冷し飴、手焼きの瓦煎餅屋も並び、昭和の賑わいとぬくもりが残っています。

東山町にはイコンのような小さな女神像を描き続ける「奇跡の画家」・石井一男さんも暮らしています。

商店街の坂を上がると新湊川に架かる氷室橋。上流側は深い川がカーブ。

 

「この上の山には氷室があって、清盛の雪御所に氷を運んでいました…」

さっき漬物を買っていた幹事長・一風さんの名調子のガイド。

「この川深いけど、何メートルあるの」「それはさあ…」

六甲山地からの増水時の鉄砲水はしばしば大被害をもたらします。これだけ深く造らなければ、安心はできません。

この辺りは850年前に平清盛が居を構え、神戸でも古い住宅地。大正時代に命名された町名は、東山・湊川・菊水・夢野・熊野・氷室・大同・雪御所・湊山・上三条・下三条・上祇園・下祇園…清盛の都を偲ばせる佳名を選んでいます。ただし「東山」の地名の由来は、鵯越道の近道として会下山に切通しを作ってできた東端の小山からでした。

清盛の都-狩衣の袖の裏はふ蛍かな 蕪村-

京から遠い博多・大宰府で行っている日宋貿易を大輪田の泊でやろうと考えた平清盛は、独自の発想で瀬戸内海航路を整備して宮島に厳島神社を造営。京では後白河院と結び、公卿として六波羅で権力の座を上り詰めますが、1168年に出家した後は兵庫の山荘を拠点に、大輪田の泊を修築して宋の船を迎え入れ、自ら唐船を入手して貿易を発展させます。

しかし清盛は後白河院と対立し、1179年には後白河院を幽閉。翌1180年2月に清盛の甥の高倉天皇が清盛の孫の3歳の安徳天皇に譲位すると、4月に後白河院の次男・以仁王は諸国に平氏追討の令旨を下します。5月に以仁王は老将・源頼政と挙兵し宇治で敗れます。

    

冬枯れや平等院の庭の面 鬼貫

京は竜巻による被害もあり、清盛は、400年の歴史のある平安京から、南都北嶺の寺社勢力の及ばない海の都、兵庫・福原へ遷都。安徳天皇らは清盛の山荘に設けた内裏に迎えます。

鴨長明(1155-1216)は、当時の新都を訪れており、「方丈記」に、公家達が京の屋敷を解体して淀川で運び、新都に来たものの困惑した様子を描き残しています。

所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、(…)日々にこぼちて川もせきあへず運びくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。(…)日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。

遷都の後、源頼朝や源義仲が挙兵し、富士川の戦いで平氏軍が敗走。平氏討伐の動きが活発化します。やむなく清盛は半年で京に還都。翌年、清盛は熱病により63歳で急死します。2年後の1183年に平氏は義仲に追われ、三種の神器を持って、兵庫・福原に建ち並ぶ邸宅群を焼き払い、西国に都落ち。平氏は西国で再び勢力を回復し、義仲軍を打ち負かすと、数万騎の大軍となって兵庫に戻り、京を奪回すべく陣営を築きますが、源範頼・義経の徹底した追撃により、滅亡に向かいます。

平家物語では平氏を「驕れるもの久しからず」と断定しますが、源氏の将軍も三代で断絶、北条氏の武家政治の世となり、その後も足利、徳川の武家政治が続いてゆきます。

清盛は、現在の兵庫・長田一帯(和田京)に新都を築く計画でしたが、土地が狭いため、昆陽野(伊丹)や印南野も新都の候補だったといわれています。清盛の壮大な夢は実現しませんでしたが、兵庫・福原の遺跡調査では当時の邸宅跡などが見つかっています。

作家の永井路子さんは、頼朝の築いた鎌倉は、三方が山に囲まれ南の海には宋船が入港する海の都で、頼朝は清盛の夢を継承し、家康もまた江戸・品川で海の都を継承した、と語っています。

清盛の都が完成していたら、鶴岡八幡宮や若宮大路のある鎌倉のような都だったのかも。

    

2012年に放映されたNHK大河ドラマ「平清盛」は、豪華絢爛たる絵巻物の世界を期待した視聴者が敬遠し、放映時は視聴率が低迷しましたが、平安末期の時代考証が的確で、印象に残る場面が多く、いまアーカイブではトップの人気だそうです。

清盛が新都の守り神に招いた熊野神社(兵庫)・八幡神社(六甲)・北野天満宮(北野)は今に続いています。

湊川隧道-易水にねぶか流るる寒かな 蕪村-

 

新湊川に沿って西に歩きます。

川沿いはきれいに整備された遊歩道と公園。今日は晴れて暖かいので、公園で将棋を楽しんでいる人もいます。

新湊川の左岸には夢野の丘小学校の建物。ここには1900年から1960年頃まで市立東山病院がありました。神戸港は海外からコレラやペスト、スペイン風邪も持ち込まれ、防疫の最前線でもありました。

 

湊川隧道の入口に到着。

この隧道は、湊川を改修し流れを変えて西の苅藻川に合流させるため、会下山をくり抜いた長さ600mのわが国最初の近代河川トンネルで、1901年に完成しました。

湊川改修前はたびたび洪水が発生し、治水対策は大きな課題でした。特に1896年8月の大水害は、旧湊川左岸の堤防が100mにわたって決壊する惨事となり、当時の新聞に「神戸市目下の急務」と報じられました。

昔の地図で見ると、旧湊川はやや東に曲がっており、旧湊川以前に、西側を流れて大輪田の泊・兵庫津へ注ぐ古湊川があったのではといわれています。

 

1581年、花隈城の荒木村重を攻め落とした池田恒興により、兵庫津に兵庫城が築かれます。湊川の支流が堀の役目を果たし、前面に港を持つ海城でした。兵庫津は1583年に豊臣秀吉の直轄地となり、江戸時代は尼崎藩領になります。1769年に幕府の直轄地となり、城は廃城となって堀が埋められ勤番所に。明治の初めには初代兵庫県庁に代用され、伊藤博文も執務しました。いま兵庫県では県政150年事業で、2020年度完成を目指し、初代県庁の復元を進めています。

兵庫津の町の人々にとっての脅威は、大雨による湊川の決壊。強固な堤防を築き、町割で持ち場を定めて警戒し避難場所も決めていました。西出町・東出町は湊川を東に押し出してできた町。

兵庫と神戸は、旧湊川で隔絶されていたため、神戸側に外国人居留地を置くことで、開港に踏み切りました。鉄道も当初は川底にトンネルを掘って通しました。開港の恩恵が広がり、交通や経済活動が盛んになると、兵庫と神戸の分断の解消を考えます。

湊川の付け替え事業は、治水対策、神戸港への土砂流出防止対策、湊川堤防・河川敷地の平坦化という3つの目的を掲げ、多くの有力者が関わって民間事業で行われました。

この頃、他のプロジェクトも進行。波の荒い和田岬沖を避けて船を航行させる兵庫運河の開削と、井戸に頼らずに安全な飲み水を行き渡らせる水道事業です。1899年に兵庫運河が完成、1900年に布引貯水池・奥平野浄水場、1905年に烏原貯水池が完成し、神戸は大都市に変貌してゆきます。

湊川隧道は、1995年の阪神・淡路大震災で被害を受け、新湊川改修事業で2000年に新湊川トンネルを完成させて役目を終えますが、高度な土木技術で造られた貴重な土木遺産として残されました。

毎年11月18日(十一・十八)の「土木の日」のイベントとして、直近の日曜日に「新湊川ウォーク」を開催。今年は今日11月11日。湊川隧道入口から、隧道と新湊川の遊歩道を通って長田橋まで歩く約1.5kmのウォークで、所要時間は約60分。

今回の吟行では、「通り抜け組」と「見学組」に分かれました。

通り抜け組のろまん亭さんの写真をお楽しみください。

  

 

 

 

          

会下山・松本通-旗持ちはしびれの切れる湊川-

見学組は、湊川隧道を見学の後、神戸電鉄の高架をくぐり、川崎病院を東に見ながら、会下山の切通しを南に下ります。

会下山は、楠木正成が足利尊氏の大軍を迎え討つのに陣を構えた場所でした。

わずか3年前、正成の活躍に刺激され、鎌倉方の足利尊氏や新田義貞が寝返って鎌倉幕府を滅亡させ、隠岐から京へ凱旋する後醍醐天皇をこの兵庫で出迎え、建武の新政が始まりました。

会下山は標高85mの低い山ですが、当時は山頂に立つと、目の前に湊川の流れがあり、和田岬に陣を張る味方の総大将・新田義貞軍や、海と陸から押し寄せる敵の足利軍の動きが克明にわかりました。足利軍の主力が東方面に上陸すると見た新田軍が和田岬から東に移動するや、足利軍の主力は和田岬に上陸。孤立した正成軍は果敢に攻撃を繰り返し敗北します。

会下山の山上は桜の公園。街なかの山なので上の方まで住宅になっています。

下っていくと松本通の住宅街。震災復興の街です。阪神・淡路大震災の映像といえば倒壊した高速道路と神戸の市街地から立ちのぼる幾筋もの黒煙の柱が映し出されますが、松本通も大火災に遭いました。その経験から、復興のまちづくりの中でせせらぎの通りが造られ、地域のシンボルとして守られています。

木曽路-木曽路ゆく我も旅人散る木の葉 亞浪-

午前11時30分、和食レストラン「木曽路・湊川店」に到着。今回の吟行のルートの終点の位置だったので、昼食場所にしました。

「木曽路」を無理にこじつければ、木曽で育ち、以仁王の令旨により1183年5月の倶利伽羅峠の戦いで平氏を討伐し、東国の武士を引き連れて京に一番乗りした木曽義仲(源義仲)。が、義仲は後白河院と対立し、備中・水島の戦いで平氏に大敗し、翌年1月に従兄弟である源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢との宇治川の戦いで討たれ、近江の義仲寺に葬られます。享年31歳。義仲寺には近江の地を好んだ芭蕉も眠っています。

 

昼食のメニューは巴御前ではなく「妻籠御膳」。信州の深まる秋を少し感じさせるミニ懐石。

喉が渇いているのでビールで乾杯。和服姿のサービス係さんがテキパキと料理を運んできます。はじめは出てくる料理を味わっていましたが、ペットのことやAIのことや積もる話に夢中。

鍋が煮えてきたので見ると「きりたんぽ鍋」。木曽の馬篭・妻籠なら五平餅や朴葉味噌、栗きんとんが名産品ですが、「きりたんぽは秋田じゃない」、「関ケ原を越えれば東国、似たようなものか」。昼酒は回りが早く、話も盛り上がり、ちょうどいい量の昼食で満足。

兵庫公会堂での句会に向かう前に、全員集合写真を、通りがかりのお兄さんに撮ってもらいました。木曽路の石標の前に整列しましたが、忘・新年会の白いのぼりの方が目立ってしまいました。

湊川句会―――――――――――――

午後1時に句会場の兵庫公会堂第1集会室に全員到着し、着席。

各自5枚の句を書いた短冊の提出は午後1時30分。集まった短冊をばらして選句表に清書。

清書した選句表を、隣のスーパーのコピーサービスで人数分コピー。コピーができるまでは、つきひさん差し入れの塩味饅頭をいただきながら、コーヒータイム。

 

午後2時15分全員に選句表を配付し、各自、15分で自作以外の気に入った6句を選びます。特選1句2点、その他5句は1点で、各人の持ち点は計7点。参加者12名の総点数84点の争奪戦です。

午後2時30分、つきひさんの進行で、特選句から順番に選んだ理由も挙げながら発表。60句全部に点数が付けられて作者が明かされます。

 

選句の発表

今日できた名句を一挙ご紹介。句の数字は句会での得点、は特選句です。

一風

建て替えの区役所終の秋惜しむ ①

松茸をながめ込みつつ商店街

紅葉散る楠公も見た湊川

隧道の古きレンガに秋惜しむ ②

久しぶりしゃべりつくして冬に入る ①

さくら

秋風やシャッター閉じし店多し ①

身に入むや往時の水の物語 ④

公園で終日将棋秋うらら ②

隧道を出れば金色榠樝の実 ①

平成を締める句会や菊日和 ⑤

蛸地蔵

寒さあり都会の朝の喫茶室

夢の橋渉る向うに紅葉道 ①

小春日に明治の遺構訪れり

隧道に世紀を超えて秋の風 ②

震災も二十余年の秋日和

だっくす

小春日の市場散策主婦目線 ②

秋の市場買ひたき物の溢れをり ②

母胎てふトンネル歩き秋惜しむ ①

行く秋のトンネルの先異界かも ⑪◎◎◎◎

トンネルを歩いて出れば天高し ②

つきひ

風水禍桜紅葉の塩垂れて ①

紅葉や川に古湊新湊 ④

冬ぬくし土木の日とて隧道に ①

ふところに河川トンネル山眠る ⑤

坑道の出口入口草紅葉 ③

稲村

にぎわいぬ商店街は秋尽くし

暑けれど街路樹みな冬じたく

会下山や楠公無念秋の風

湊川隧道出れば天高し

震災の復興寿ぐ秋の空

散る秋や赤いさくら葉はらはらと

湊川散り行く覚悟秋俳句 ②

会下山をくぐりて秋をたずねけり ③

トンネルに明り流れる秋の川

鯉の秋松本通震災後

播町

魚屋の向い魚屋水を撒く ②

老々の売り手買い手や秋茄子 ③

覗かねば見えぬ川あり秋の声 ②

先人の技の隧道秋日濃し ②

水溜りのゆらぐ灯りに寒さあり

ひろひろ

神だのみ小春日句会皆発句

静かなり昔市役所今日小春

隧道で歩行訓練小春日下 ②

昼飯が句会の宴みな小春

小春句会日本国家のひと駒や

へるめん

まちぶらは昭和・平成柿落葉 ③

隧道に秋の翳の雫かな ④

隧道を抜けりゃ小春の湊川 ②

メンバー集い秋を一日を惜しみけり

十一月木曽路はすべて山の中 ②

見水

楠公さん子ら晴れやかに七五三

一万騎過ぐ涸れ川の湊川 ②

青首大根半分切っておでん煮く

足止めて水鳥探す橋の上

枯尾花イギリス積みの煉瓦壁 ③

ろまん亭

想い出はあの店ビルも湊川

松茸も商店街ににぎわって

トンネルが明治の遺構人多し

行楽日隧道遺産吸い込まれ

トンネルを降りて冬めくせまりくる

高得点句

本日はぶっちぎりの11点獲得句が1句と、5点句が2句、4点句が3句ありました。

行く秋のトンネルの先異界かも だっくす⑪◎◎◎◎

だんだん暗くなって、歩いていて気味悪かったですね。共感。

ふところに河川トンネル山眠る つきひ⑤◎

会下山を擬人化。赤ん坊を抱いた優しいお母さんのよう。

平成を締める句会や菊日和 さくら⑤◎

災害が続いた平成。締めくくりは穏やかであってほしい。

身に入むや往時の水の物語 さくら④

湊川の水防に尽力した先人達に頭が下がります。

紅葉や川に古湊新湊 つきひ④

兵庫の人々には、湊川は長いつきあいの川です。

隧道に秋の翳の雫かな へるめん④◎

隧道で見つけた「かげり」と「しずく」。さすが書家。

表彰式

 

獲得点数により順位が決定。表彰式です。優勝はだっくすさん(18点)、続いてつきひさん(14点)、さくらさん(13点)、へるめんさん(11点)。

他のメンバーの得点は、播町さん(9点)、英さん(5点)、見水さん(5点)、一風さん(4点)、蛸地蔵さん(3点)、ひろひろさん(2点)、稲村さん(0点)、ろまん亭さん(0点)。

だっくすさん、つきひさん、さくらさんは出句した5句すべて得点しパーフェクト。

今回の賞品は、幹事のさくらさんが湊川トンネル東口山側の珍味・あられの老舗「豆福」で選んだ酒の友のおつまみあれこれ。長い秋の夜、静かにお酒を味わってください、とのこと。

優勝 天高し賞    だっくすさん

2位  金風賞       つきひさん

3位  菊日和賞           さくらさん

4位  当日敢闘秋晴賞     へるめんさん

5位  爽やか賞           播町さん

6位  秀麗賞            英さん

6位  紅葉賞            見水さん

8位  小春賞            一風さん

9位  秋麗賞            蛸地蔵さん

10位 秋涼賞            ひろひろさん

11位 ブービー花野賞   稲村さん

12位 深秋賞            ろまん亭さん 

女性軍対男性軍では、女性軍4名の得点が56点、男性軍8名の得点が28点。大差を持って女性軍圧勝で、午後4時に句会は終了しました。

部屋の退出時刻の4時半まで時間があるので、一風幹事長から次回の春の吟行の候補地の提案。最近は神戸市内が続いたので、次回は東に足を伸ばし、来春オープンの尼崎城をメインに、寺町や近松門左衛門ゆかりの場所など、尼崎の名所散策で進めたいとのこと。異論はなくほぼ了解。一風幹事長にとっては、懐かしい故郷の地での開催になります。

兵庫公会堂を出て、夕暮れの湊川公園を抜け、三々五々新開地へと吸い込まれ、散会しました。

今回の事前準備と幹事の一風さん、さくらさん、お疲れさまでした。次回が楽しみです。

 

凩や雲裏の雲夕焼くる 亞浪

今日11月11日は、歳時記では、1879年に小諸に生まれ、新聞記者を経て1915年に「石楠」を創刊主宰、大正・昭和の俳壇に独自の地歩を築いた俳人・臼田亞浪が1951年に亡くなった亞浪忌でした。 

2018.11 写真/romantei ,文/mimizu