坂の上の雲・松山冬遍路

春や昔十五万石の城下哉 子規
年明け成人の日の3連休、車で松山を訪ねた。年末に放映されたNHK番組の影響で、街は「坂の上の雲」一色。若い観光客も多い。
石鎚をはるかに仰ぐ冬遍路
神戸から淡路・鳴門・高松を経て愛媛に入ると関西のラジオは聞き取れなくなり、松山の南海放送に切り替えると、川柳・俳句、お坊さんの話やお遍路の話題。やがて伊予の田園風景がひろがり異郷にきた実感がわいてくる。
松山に到着。車を市役所の駐車場に入れ、裁判所横の「坂の上の雲ミュージアム」へ。三越デパート、全日空ホテル、大街道の通りは健在のようである。
ミュージアムの前まで来ると、明治28年に子規が共に暮らした漱石の下宿「愚陀仏庵」を裏の城山を上った場所に復元していると案内があるので、見に行く。最近、句会にも貸し出しする新聞記事があったが、庭も座敷も小ぎれいに手入れされ、縁側から上がってみたくなる小住宅である。
愚陀仏は主人の名なり冬籠 漱石

途中にある旧藩主・久松伯爵が財を投じた古城のような洋館「萬翠荘」も拝見し、明治の松山の空気に馴染んだところで「坂の上の雲ミュージアム」へ。
「坂の上の雲ミュージアム」は都心の三角地に三角形に建てられた安藤忠雄建築で、司馬遼太郎の描いたおなじみの秋山好古・真之兄弟のストーリーや掲載された新聞小説などの展示を見ながら回廊を上がっていくと、上の階に兄弟の手紙やレポート、遺品、時代を理解するための展示物が並んでいる。
兄弟の筆跡は、好古は朴訥として凛々しく、真之は流れるようにリズミカル。「男は一生にひとつのことを成せばよい」を信条とした好古と、「智謀湧くがごとし」と賞賛された真之の性格の違いが字にも現れているようだ。
今日はここまで。南隣の伊予市の宿にチェックインし、夕日100選の双海(ふたみ)までドライブ。伊予灘に沈む冬の落日を見届けた。

日が落ちてコートの動く双海浦
翌日も温かな小春日和。松山に戻り、道後温泉に近い真言宗の名刹51番札所の石手寺の駐車場に車を止める。特大の草鞋を掲げ、仁王が睨み合う山門は国宝で、三重の塔や本堂の周辺は巡礼姿や大勢の観光客で賑わっている。
子規もよく訪れていたようで、明治28年作の句碑がある。
身の上や御籤を引けば秋の風 子規

おみくじも置いてあるが、この句を見れば引く気にはなれない。
寺の前には美しい小川が流れている。道路を挟んで名物の焼餅店があり、店の中でお茶と一緒にいただいた。焼きたてなので餅も餡も熱くとろけている。
さざんかの花びら一つ石手川
焼餅を二つ買い込む冬遍路
石手寺に長居し過ぎてもう昼。三越デパートのパーキングに車を預けて昼食。成人式会場の市民会館が近いので晴れ着姿がちらほら。お城に上がるロープウェイ乗り場に向かう。リフトも同じ場所から発着している。
松山の若い観光ガイドスタッフは、坊ちゃん・マドンナ姿で愛想よく遠来の客をもてなしている。
グループで来たメンバーがロープウェイとリフトに分かれて乗り、お互いに相手を見つけて手を振っている。
城山のリフト手を振る着ぶくれて
ロープウェイを降り、天守閣まで歩く。途中で句碑を発見。

松山や秋より高き天主閣 子規

山上の桜の木々はもう花芽をつけている。松山市街を眺め、伊予の明るい自然に囲まれて旅情に浸り、茶店の緋毛氈の縁台にすわって伊予柑マーマレードのたっぷり乗った伊予柑ソフトで一服。
再び市街地に降り、道をくだっていくと、秋山兄弟生誕地の案内標示。標示どおりに横道に入ると、復元された旧居と二人の銅像がある。旧居は兄の好古が晩年に請われて中学校の校長になり単身で住んだ家で、土間があり農家のような簡素な作りである。

銅像は戦前、町のシンボルの道後公園に立っていた。金属の供出で撤去。戦後、軍人の銅像を立てるのをはばかって町はずれに置かれ、ごく最近ここに復元された。兄弟が互いに顔を見合わすように置かれている。
銅像が等身大になって生家に置かれるのは悪くはないが、軍服の像は否応なしに100年前の時代を感じさせる。
今日の宿は道後温泉街。早めにチェックインし、温泉街を散策する。
道後公園の一角にある市立子規記念博物館。子供時代の3畳の書斎を生家に復元した「子規堂」はすでにあったが、約30年前、この豪壮な博物館が建てられた。
子規の残した膨大な書き物や写生画、写真や映像で、ていねいに子規の一生と業績を紹介している。子規はたくさんの俳号を作った。「漱石」も元は子規が自分のために作った俳号の一つだった。
松山には、山頭火が最期を過ごした「一草庵」があり、宮本夫人の意思もあって伊丹十三記念館がある。そのうち大江健三郎記念館もできるかも知れない。

博物館を出て、カラクリ時計や坊ちゃん列車の止まっている道後温泉駅まで行くと観光客だらけ。土産物屋の並ぶ狭い商店街を歩くと、客を乗せた人力車のお兄さんが道を開けてくれるよう大声を張り上げてすり抜けていく。
小春日に人力車ゆく道後の湯
道後は市街地の温泉で地元の人も気軽に通える。地元の人の銭湯のような温泉が商店街の中の「椿の湯」。外壁に窓から湯があふれている騙し絵も描かれ洒落ている。「椿の湯」がその時代にあれば漱石先生も入って愛媛弁の会話を楽しんだのでは。
吾輩は元気ぞなもし椿の湯
商店街を直角に折れると正面に道後温泉本館。ここも大勢の人。手前の一六タルトの店内にはすわってタルトを食べている人もいる。
柚子の香のタルトをつまむ道後の湯

伊予柑の香りはじける宿の朝
3日目になると松山への愛着が増して、旬の伊予柑まで愛おしくなる。
今日は、しまなみ海道経由で帰るだけ。今治まで海岸線を走ることにした。 このあたり今は松山市になっているが旧・北条市。渥美清がこの句を詠んだ。
お遍路が一列に行く虹の中 風天
天気はいいが寒そうな冬空。右手に蜜柑山が続き、左手は白波の立つ海。
かつて暗い日本海を見つめ、電文の原稿に鉛筆で「天気晴朗ナレドモ波高シ」と書かずにいられなかった真之こと淳さんに思いを馳せ、一句。
波高シ天気晴朗蜜柑山
(2010新春・見水)