「天気の子」見ましたが・・・。
須々木です。
先日、新海誠監督作品「天気の子」を見てきました。
見に行ったあと、“感想戦”なる謎イベントをやることが急遽決定し、復習としてもう1回見に行きました。
「1回目に見たときと、何か違う感覚を持つかもしれない」と思いましたが、2回目もあまり変わらず・・・という感じで。
そんなわけで、単純に、僕の個人的な感想、および感想未満のメモ書きのようなものを残しておきます。
1回目のあと、2回目を見に行くまでにメモったものですが、2回目を見て、その後に感想戦をしても特に変わらなかったので、ほぼそのままで。
特に分かりやすく整理していないのでご注意(思いついた順にメモ)。
見る人によって、様々な感想があると思うので、その点、くれぐれもご了承を。
※以下、ネタバレ気にせず書いています。
まず率直な感想。
「00年代のセカイ系が、2010年代に描かれると本当に空っぽで、その何かとてつもなく中身のない話を、美しい映像と音楽で最大限盛り付けし演出した、TikTokのような作品」と思いました。
エンターテインメント作品として、それなりに楽しめはしましたが、なんとも言えない不完全燃焼感。。
すごく勝手なことを言えば、「いろいろ勿体ない・・・」という感じ。
ちなみに、クレーターの縁にいても生き残れてしまう「君の名は。」に引き続き、科学考証という概念はないようだ。
これはローファンタジーを装ったハイファンタジーなのか?
ラスト、どれだけ雨が多く降ったところで、海面は上昇しない点に注意が必要(雨が降る分、雨雲になるべく海面から水分が失われているため、南極などの氷が急激に融解しない限り、海水の総量は変わらず)。
最後の廃ビルの場所に、どうして皆スムーズに辿り着くのか。
新海作品でも、ここまでのご都合主義ははじめてではないか。
科学考証にこだわるか雑かどうかということは、作品そのものの良し悪しにそれほど影響しないという判断なのか。
しかし、かつてのB級感が減り、背景情報などのリアリティーがますます凄みを増す中、杜撰な科学考証が目につくというのも一つの事実だと思う。
現実世界を舞台とするタイプの新海作品において、超自然事象が、メインの一発以外にも散見されることには、少しばかりモヤモヤ感がある。
つまり、「君の名は。」における「入れ替わってる!?」以外の不思議現象はなしにしてもらいたいし、同様に、「天気の子」において、「100%晴れ女」以外の杜撰な考証はどうにかして欲しいというのが本音である。
「君の名は。」よりもさらに対象年齢を下げてきた気がする。
さらに言えば、「言の葉の庭」→「君の名は。」→「天気の子」で順に対象年齢を下げている気がする。
ちなみに、新海作品の中では個人的に「言の葉の庭」が一番好きです。
なかなか主人公に共感するのがきつくなってきた(今回は、部分的に共感することすらかなり厳しかった)。
推理やアクションを楽しむタイプではないので、基本的には、主人公に共感できるかというのがすべてであり、それ故に、評価は真っ二つに分かれると思われる。
なお、今作は、ハッとさせるような展開上の大きな仕掛けもなかった(前作は、時間のズレが明らかになるところは大きな仕掛けとして機能していた)。
家出少年は葛藤を抱えているようだが、その葛藤そのものに触れられることはなく、単なる作中のトッピングになっている気がする。
家出の理由は、新海監督が意図的に描いていないようだ(その意図が作品にとってプラスかは議論の余地あり)。
しかし、それなら、家出の理由が気にならないような構成にするべきだったのではないか(あのスタートであれば、最終的に、何事もなく島に帰ることに違和感を持たざるを得ない)。
結局、「君と出会い、離れ、また出会うのか出会わないのか」という話。
他はわりとどうでも良いんだろう。
秒単位で刹那的に楽しみ消費し、忘れて次の刹那へ。
それが過去の何かから繋がっているとか、未来の何かに繋がるなんて話はどうでも良い。
パッションだけを求め、ただただ短絡的に。
整合性なんてクソくらえ。
そんな勢いに、より共鳴する世代が、受け取って楽しめれば、それでこの作品の存在価値は十分。
そんなところなのだろうか。
こういうことやったら、将来に響く?
知るかそんなもの。
大人になれよ少年。
知るかそんなもの。
「大人になれよ少年」と言われても「大人にならない」。
つまり、本作で言わんとしているのは、「大人になれよと言われても気にせず子供のままでいろ」ということなのだろうか。
確かに、面倒な理屈と忖度の糸に絡まり身動きが取れなくなりがちな昨今において、このような作品は、分厚い雨雲に差し込む一筋の光なのかもしれない。
実は、「千と千尋」以降の宮崎アニメ的な新境地なのか。
直後より暫く経ってからの方が良く感じる・・・と思ったが、意外と二度目にも印象は変わらなかった。
新海監督の過去作「雲のむこう、約束の場所」のリメイク版とも言える。
少女と世界を天秤にかけるのはまったく同じだし、雲を超えたところに超自然的なスポットがあり、そこで少女と再会するというのも同じ。
そして、時が経過して、主人公以外が大人の考えになっていき、取り残された主人公と対比されるのも同じ。
しばしば宮崎作品からの影響を色濃く受ける新海作品。
しかし、宮崎作品は「成長」を描くのに対し、新海作品は「成長したくない」(成長しないままでの「肯定」。ただし、世間一般に広く受け入れられないことを理解しているので、各作品中でも肯定してくれるのはごく少数)を描く。
この点については、今作において「これ以上ぼくたちに何も足さず、ぼくたちから何も引かないでください」という台詞に集約され、非常に象徴的だった。
宮崎駿は、自身が内なる純粋な情熱に突き動かされる“子供”だから、〈大人になっていく過程=成長〉を描き、新海誠は、自身が理性に制御されている“大人”だから〈子供のままでいる願望=アンチ成長〉を描くのか。
その意味で、本作は、新海誠の原点回帰なのか?
宮崎駿でいう、「もののけ姫」→「千と千尋」に近いものを感じる。
「千と千尋」から、ご都合主義とも言える、唐突なアイテム出現、超展開が見られるようになる(人気が定着してきたため使えるやり方とも言える。「ポニョ」もかなり顕著)。
時として「伏線の張り逃げ」に見える要素が、もしかすると一度見るだけだとチープに見えてしまうリスクを生む。
そして、この贅沢な(伏線を回収しないで良しとされる限られた者だけに許される)、作家の自信に裏付けられた手法が、「天気の子」で新海作品として初めて大胆に取り入れられている気がする。
科学考証は敢えてしていないのか。
これは、パースなどの作画上の整合性を無視しても作家の意図を重視する宮崎アニメに通ずる気もする。
様々な次元で、こうあるべきという「正しさ」を重視しない反抗的な姿勢を感じる(作中で、法に歯向かい警察に抵抗するところもしかり)。
思えば、新海監督は、自覚の有る無しに関わらず、宮崎駿の影を追っているように見える。
「星を追う子ども」は、あまりに露骨だったが、まさにジブリの影響を感じさせる作品だった(本人もジブリへの意識に言及している)。
また、「言の葉の庭」にも、「耳をすませば」との類似点を感じる。
沈む東京は、科学考証をすればありえないが、イメージ的にはジブリに通ずる。
「千と千尋」、「ポニョ」でも、沈んだ街に残る線路、生活していた町が沈んだ光景は、非常に印象的に描かれる。
また、津波で沈む街にも通ずるのかもしれない(「君の名は。」は、災害により壊滅する街を描き、その点で批判もされたようだ。そして、新海誠はそのことをそれなりに意識しているようだ)。
だからこそ、東京は沈まなければならなかったのだろう。
沈んだ東京で、無責任に「大丈夫」と言い放つ必要があったのだろう。
※ 微妙なことばかり書いてしまった気がしますが、面白い作品だったとは思います(たぶん)。ただ、「新海誠は、もっとできるでしょ!」という気持ちが強いので、やはり不完全燃焼感は如何ともしがたい。次作に期待。
sho