今更ながら「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」を見た。
須々木です。
タイトル通り、なぜか今まで見ていなかった「ビューティフル・ドリーマー」を見ました。
ご存知の通り、「うる星やつら」は高橋留美子が1978~1987年にかけて週刊少年サンデーで連載していた漫画で、本作は1984年に公開された劇場版アニメの2作目です。
1作目につづき押井守が監督をしていますが、「押井作品の原点であり出世作」とも言われていたりします。
そんでもって、押井守はこれにてテレビシリーズのチーフディレクターを降板、スタジオぴえろを退社し、以後フリーとなります。
本作については、賛否が大きく分かれ、中でも原作者からの否定的な評価は広く知られているところです。
これについては、作品を見ればわかるとおり、高橋留美子作品ではなく、完全に押井守作品となっているので、「そりゃそうだ」という感じです。
・・・などという話は、ネットで調べれば普通に出てくるので、以下は、完全に個人的な感想とかを書いていこうと思います。
他の押井作品同様、様々な人が考察し、独自に解釈しているので、そういったものと被るところもあるかもしれませんが、そういうのは気にせず、好き勝手書いていきます。
なお、押井守(監督)、西村純二(演出)、千葉繁(声優)によるオーディオコメンタリーも参考にしています(2002年収録?)。
※以下、ネタバレ多数。というより、みんな見たことあるという前提で。
学園祭前日をひたすら繰り返す本作は、当然のことながら、典型的な「ループもの」で、後の様々な作品にも影響を及ぼしています。
さて「ループもの」とわざわざ書きましたが、「ループ」という構造自体は、実は改めて書くようなものでもありません。
というか、原作漫画もある種のループ構造です。
原作は、俗に言う「サザエさん方式」というやつで、学年は上がらず季節が巡る(高校2年のクリスマスが何度も描かれたりする)タイプの漫画です。
連載漫画や放送期間の長いアニメでは、昔からわりとよくあるタイプ。
「同じ学年を繰り返しているはずだが、作品世界のキャラクターは違和感を持たない」という前提の存在する状態であり、これは紛れもない「ループ構造」です。
ただ、「ビューティフル・ドリーマー」では、そのことに非常に自覚的であるという点で、原作漫画と異なる構造が現れてきます。
「ループ構造」は、自己言及されると、極めてメタ的な構造になります。
とまあ、本作の根幹とも言えるこのあたりの話は、また後ほど。
本作では、いくつか特徴的なモチーフが繰り返し登場してきます。
代表的なものとしては以下のようなものが挙げられます。
※いずれもオーディオコメンタリーで触れられているので、意図的なもの。
●胡蝶の夢
・作中でも直接的に語られている。
・実際に、蝶を印象的に画面に入れている(喫茶店の場面)。
●浦島太郎
・これも作中で直接的に語られている。「浦島太郎で、カメを助けたのが村人全員だったら、気付くのだろうか?」という思考実験は、本作において重要な意味を持っている。
・ちょいちょいカメのデザインが登場する。
・キャラクターたちが世界の構造に気付く場面で、世界の土台として印象的に描かれている。
●エッシャー
・絵としても作品構造(無限ループ構造や錯覚)としても、明らかに大きな影響を受けている。
・特に、夜の校舎の場面では、まんまエッシャー的な描かれ方をしている。
●鏡のような水面
・あたるが吸い込まれる道路の水たまりや、面堂がラムに質問した直後に足元に広がっていく水たまり(?)など。
その他にも印象的な場面、演出がいくつもあります。
例えば、序盤、夜の町に現れるチンドン屋は妙に印象的ですが、これ自体を伏線とする描写はあとの場面にも出てきません。
他にも、しのぶが路地裏に入る場面の風鈴も同様。
これらは、作品内の伏線として使われてはいないので、単なる趣味なのか、意図的なものなのかはよくわかりません。
オーディオコメンタリーなどを聞いた限り、結構いきあたりばったりで制作しているところがあるようなので、本当に深い意味がなく、単に描きたかったという可能性もあります。
実際、「人のいない夜の町」は、押井守の中の「夢」のイメージにつながっているようです。
なので、単にそういったイメージの積み重ねであり、特段仕掛けがあるわけでもないのかもしれません。
この「夜の町」に関して、敢えて明確に仕掛けとして描かれているところを探すなら、「チンドン屋の後ろをついていく幼い少女」と「道路ですれ違った車が積んでいる大量のマネキン」といったところ。
マネキンに関しては、終盤で夢の世界が破壊されるとき再登場しますが、序盤で描かれたものには「夢の世界をつくりあげる準備をしている」という意味で付けがされている模様。。
他に伏線的に描かれている描写としては、あたるの家からみんなで登校する場面の「魚」あたりでしょうか。
道端の水たまりが、不自然な鏡面となっており、しかもその鏡の向こう側からの視点(当然、本来の水たまりの深さではありえないアングル)が描かれているわけですが、そのときに視界を「魚」が横切ります。
勿論いろいろとあり得ないわけですが、キャラクターたちが友引町の異変に気づき、町が大きく変貌して後のシーンで、巨大魚を釣り上げたところにリンクしているんでしょう。
つまり、世界の異様さを視覚的に示す指標として利用されているのでしょう。
あとは、そもそもこの「夢の世界」の発端となった「水族館」との関連性も感じるところです。
この「鏡のような水たまり」に足を踏み入れたあたるは、学校のプールにテレポートするわけですが、これは「空間」がめちゃくちゃになってきていることを表現する役割もあるのでしょう。
同様の表現として、校舎の時計が故障中になっているのは「時間」、校舎の階数が変動するのは「空間」がめちゃくちゃになっていることを表しているのでしょう。
「鏡面」や「あわせ鏡」は、異様さを印象付ける目的で繰り返し使われているので、その延長とも言えそうです。
そもそも、映画はオープニングなしで、唐突に、大きな池の中に沈みかけて廃墟と化した校舎で遊ぶ場面からはじまります。
本作で最も重要なロケーションである友引高校の校舎がこのように登場することからも、「水」が印象的に描かれていると言えそうです。
なお、オーディオコメンタリーによると、「学校が廃墟になったら行っても良いなと思っていた」(押井)らしいので、非常に楽し気な場面になっているのでしょう。
独特な台詞回しの多い「夢邪鬼」については、そのまんま押井守本人の言葉だと思いますが、のちの押井作品にも脈々と受け継がれているものを感じます。
このあたりが「押井作品の原点」と言われる所以なんでしょう。
「偽物のあたる(実は夢邪鬼)」や「獏を覚醒させるラッパ」は思い付きらしいので、それより手前の場面での伏線はなしとのこと。
獏が覚醒し、夢の世界を破壊していく場面で、床面にあらわれる方眼は、「模型(プラモデルでつくられた町)の土台」のイメージとのこと。
また、本来は、獏の覚醒後のシーンがかなり長かったけれど、バランスを考えてカットされたとのこと(本当は、延々と長かった)。
さて、まとまりなく書き散らしましたが、そろそろ話をまとめにかかりましょう。
本作は、あらゆる意味において「自己言及的」です。
すでに述べた「ループ構造」への作中での言及は、とても分かりやすいところですが、実際にはそれだけには留まりません。
そもそも、「文化祭前日」のゴチャゴチャした感じは、「アニメ制作の現場」に対応するわけで、つまり、この作品には、自己言及的な無数の比喩が散りばめられているということです。
その上で考えれば、本作でポイントとなる「〈現実の世界〉と〈夢の世界〉の対比構造」は、「〈原作漫画〉と〈アニメーション〉の対比構造」に対応することも明白です。
そう考えると、本作品の作中や、のちの押井作品で繰り返し言及されることになる「現実と夢を区別することはできるだろうか?(さめなければ分からないのではないか)」という問いの裏の意味も見えてきます。
つまり、この問いはそのまま「〈原作(漫画)〉と〈アニメーション〉で描かれるそれぞれの世界の持つ価値を分け隔てるものなどあるのか?」ということになります。
原作の世界観と、それを二次創作的に描いた作品における世界観に、上下関係があるのだろうか?
実際のところ、そういうことにつながってくるのでしょう。
そして、これが、本作における、原作者と押井守の衝突の根本的な理由と考えられます。
「原作をリスペクトするのが当然」とする原作者と、「両者は区別不可能であり、それゆえに一方がより優れているとはみなせない」とする押井の対立なのでしょう。
このあたりは、夢の世界を破壊しまくることになる「獏」に描かれた「マルC」(著作権マーク。実際に破壊するときには、マークが消える)が、驚くほど直接的に表現しています。
恐らく、押井守も、原作をそこまで軽視しているわけではないとは思いますが、それでも彼自身が脳味噌につくり上げている論理の方が上位の存在と位置づけられていると感じることは多々あります。
これが所謂「押井ワールド」であり、コアなファンを生む源泉となっています。
ただ、この「押井ワールド」の理屈で行くと、高橋留美子の「うる星やつら」のさばき方が難しい。
平たく言えば、納得しがたい。
なぜこのキャラクターがこう行動するのかというところで、受け入れがたいところがどうしても残ってしまう。
テレビシリーズを制作していく中で、そういったものが蓄積していったのでしょう。
だから、最後と決めていた本作で、それらをすべて発散し、「押井ワールド」と「うる星やつら」を無理やり両立させる最終手段を行使しました。
それが「夢オチ」という名の「メタ構造」です(「夢」は「夢」であると気付かれた瞬間に相対化され、メタ化する)。
押井守は、そもそも「うる星やつら」が「夢」だと結論付けた。
そうでなければ、この作品の世界観を受け入れられない。
テレビアニメシリーズを通し、一定期間関わってきた押井守として、「うる星やつら」をどうにか受け入れよう、理解しようとした結果、限りなく破綻に近い矛盾が表面化。
それでもなお矛盾を「うる星やつら」という作品内に押とどめようとした結果、作品はかなり無茶な許容力を求められることとなり、押井守の中で奇形的な肥大化をはじめた。
そして、その末に、当作品「ビューティフル・ドリーマー」に至った。
「うる星やつら」という作品そのものに、「〈うる星やつら〉は夢である」と言及させるという「メタ構造」。
象徴的なのがラスト、教室で目覚めたラムとあたるの会話。
「ダーリン・・・ダーリン、うち、夢みたっちゃ。ダーリンがいて、天ちゃんがいて、お母様やお父様やメガネさんたちがいて・・・」
「ラム、それは夢だよ。それは夢だ・・・」
「ダーリンがいて、天ちゃんがいて、お母様やお父様やメガネさんたちがいる世界」とは、そのまんま「〈うる星やつら〉の世界」。
そして、それは「夢」だと言い切っている。
一応、この解釈を成り立たせるための「根拠」(伏線)もあります。
それが、原作漫画の「サザエさん方式」です。
“それを言っちゃあオシマイ”なのは百も承知ですが、この「サザエさん方式」は、「押井ワールド」と絶対的に相いれないものです。
高橋留美子としては不本意極まりないはずですが、押井守は、「うる星やつら」を「夢」だと(無駄に)強調することで、己の中の破綻を回避する手段をとった。
実際、「ビューティフル・ドリーマー」という作品は、「うる星やつら」の中の一作品を描くというより、「うる星やつら」の構造を“そのまんま丸ごと”再現しているようにも思えます。
すなわち、終わることなく続く、あたるやラムを中心とするドタバタ劇です。
もう少し突っ込んで言うなら、本作では、そのドタバタ劇を“外部”から眺める観測者からの視点として描き直す試みが見て取れます。
鏡写し的な描き方であり、自己言及的な描き方です。
さて、「サザエさん方式」とは、終わらせないためにとられるある種の裏ワザです。
でも、終わらないもの、繰り返し続けるものは、本来ありえない(少なくとも、押井守としてはリアリティーをもって受け入れられない)。
それでもあるというのなら、そこには何らかの理屈が存在し、「ループ」が成立しているとしか考えられない。
そして、そのことを気付かせるためには「さめる」という部分を描く必要があり、自動的にメタ化する。
これこそが、押井守が辿り着いた結論であり、高橋留美子が拒絶した結論ではないでしょうか。
これしかないというのは理解できるものの、原作者としてはキレて当然としか言いようがない。
単純に、あたるの言動(ラムに対する感情の描写)がどうとかいう問題ではなく、本質的には以上のような流れがあるような気がします。
これについては、押井守という一個人の主義主張の表明なので、賛否両論があるのは当然ですが、本作品が世に出てから30年経過した現在を見渡せば、その影響力が多大なものであることだけは明白です。
その意味では、一考の価値あるネタです。
「好きな人を好きでいるために自由でいたい」とあたるが語るように、「作品(創作)を好きでいるために自由でいたい」のが押井守。
作品が持っていると多くの人がみなす「オリジナルの世界観」からでさえも自由であることを望む押井守。
その明確な意思表明が「ビューティフル・ドリーマー」という作品の本質であり、「ビューティフル・ドリーマー」であり続ける決心をした押井守の独白にも等しい本作品誕生の舞台裏なのではないでしょうか。
そして、その当然の帰結として、現実にも一つの出来事が刻まれます。
すなわち、本作を最後に押井守は「フリー」となったわけです。
sho
タイトル通り、なぜか今まで見ていなかった「ビューティフル・ドリーマー」を見ました。
ご存知の通り、「うる星やつら」は高橋留美子が1978~1987年にかけて週刊少年サンデーで連載していた漫画で、本作は1984年に公開された劇場版アニメの2作目です。
1作目につづき押井守が監督をしていますが、「押井作品の原点であり出世作」とも言われていたりします。
そんでもって、押井守はこれにてテレビシリーズのチーフディレクターを降板、スタジオぴえろを退社し、以後フリーとなります。
本作については、賛否が大きく分かれ、中でも原作者からの否定的な評価は広く知られているところです。
これについては、作品を見ればわかるとおり、高橋留美子作品ではなく、完全に押井守作品となっているので、「そりゃそうだ」という感じです。
・・・などという話は、ネットで調べれば普通に出てくるので、以下は、完全に個人的な感想とかを書いていこうと思います。
他の押井作品同様、様々な人が考察し、独自に解釈しているので、そういったものと被るところもあるかもしれませんが、そういうのは気にせず、好き勝手書いていきます。
なお、押井守(監督)、西村純二(演出)、千葉繁(声優)によるオーディオコメンタリーも参考にしています(2002年収録?)。
※以下、ネタバレ多数。というより、みんな見たことあるという前提で。
学園祭前日をひたすら繰り返す本作は、当然のことながら、典型的な「ループもの」で、後の様々な作品にも影響を及ぼしています。
さて「ループもの」とわざわざ書きましたが、「ループ」という構造自体は、実は改めて書くようなものでもありません。
というか、原作漫画もある種のループ構造です。
原作は、俗に言う「サザエさん方式」というやつで、学年は上がらず季節が巡る(高校2年のクリスマスが何度も描かれたりする)タイプの漫画です。
連載漫画や放送期間の長いアニメでは、昔からわりとよくあるタイプ。
「同じ学年を繰り返しているはずだが、作品世界のキャラクターは違和感を持たない」という前提の存在する状態であり、これは紛れもない「ループ構造」です。
ただ、「ビューティフル・ドリーマー」では、そのことに非常に自覚的であるという点で、原作漫画と異なる構造が現れてきます。
「ループ構造」は、自己言及されると、極めてメタ的な構造になります。
とまあ、本作の根幹とも言えるこのあたりの話は、また後ほど。
本作では、いくつか特徴的なモチーフが繰り返し登場してきます。
代表的なものとしては以下のようなものが挙げられます。
※いずれもオーディオコメンタリーで触れられているので、意図的なもの。
●胡蝶の夢
・作中でも直接的に語られている。
・実際に、蝶を印象的に画面に入れている(喫茶店の場面)。
●浦島太郎
・これも作中で直接的に語られている。「浦島太郎で、カメを助けたのが村人全員だったら、気付くのだろうか?」という思考実験は、本作において重要な意味を持っている。
・ちょいちょいカメのデザインが登場する。
・キャラクターたちが世界の構造に気付く場面で、世界の土台として印象的に描かれている。
●エッシャー
・絵としても作品構造(無限ループ構造や錯覚)としても、明らかに大きな影響を受けている。
・特に、夜の校舎の場面では、まんまエッシャー的な描かれ方をしている。
●鏡のような水面
・あたるが吸い込まれる道路の水たまりや、面堂がラムに質問した直後に足元に広がっていく水たまり(?)など。
その他にも印象的な場面、演出がいくつもあります。
例えば、序盤、夜の町に現れるチンドン屋は妙に印象的ですが、これ自体を伏線とする描写はあとの場面にも出てきません。
他にも、しのぶが路地裏に入る場面の風鈴も同様。
これらは、作品内の伏線として使われてはいないので、単なる趣味なのか、意図的なものなのかはよくわかりません。
オーディオコメンタリーなどを聞いた限り、結構いきあたりばったりで制作しているところがあるようなので、本当に深い意味がなく、単に描きたかったという可能性もあります。
実際、「人のいない夜の町」は、押井守の中の「夢」のイメージにつながっているようです。
なので、単にそういったイメージの積み重ねであり、特段仕掛けがあるわけでもないのかもしれません。
この「夜の町」に関して、敢えて明確に仕掛けとして描かれているところを探すなら、「チンドン屋の後ろをついていく幼い少女」と「道路ですれ違った車が積んでいる大量のマネキン」といったところ。
マネキンに関しては、終盤で夢の世界が破壊されるとき再登場しますが、序盤で描かれたものには「夢の世界をつくりあげる準備をしている」という意味で付けがされている模様。。
他に伏線的に描かれている描写としては、あたるの家からみんなで登校する場面の「魚」あたりでしょうか。
道端の水たまりが、不自然な鏡面となっており、しかもその鏡の向こう側からの視点(当然、本来の水たまりの深さではありえないアングル)が描かれているわけですが、そのときに視界を「魚」が横切ります。
勿論いろいろとあり得ないわけですが、キャラクターたちが友引町の異変に気づき、町が大きく変貌して後のシーンで、巨大魚を釣り上げたところにリンクしているんでしょう。
つまり、世界の異様さを視覚的に示す指標として利用されているのでしょう。
あとは、そもそもこの「夢の世界」の発端となった「水族館」との関連性も感じるところです。
この「鏡のような水たまり」に足を踏み入れたあたるは、学校のプールにテレポートするわけですが、これは「空間」がめちゃくちゃになってきていることを表現する役割もあるのでしょう。
同様の表現として、校舎の時計が故障中になっているのは「時間」、校舎の階数が変動するのは「空間」がめちゃくちゃになっていることを表しているのでしょう。
「鏡面」や「あわせ鏡」は、異様さを印象付ける目的で繰り返し使われているので、その延長とも言えそうです。
そもそも、映画はオープニングなしで、唐突に、大きな池の中に沈みかけて廃墟と化した校舎で遊ぶ場面からはじまります。
本作で最も重要なロケーションである友引高校の校舎がこのように登場することからも、「水」が印象的に描かれていると言えそうです。
なお、オーディオコメンタリーによると、「学校が廃墟になったら行っても良いなと思っていた」(押井)らしいので、非常に楽し気な場面になっているのでしょう。
独特な台詞回しの多い「夢邪鬼」については、そのまんま押井守本人の言葉だと思いますが、のちの押井作品にも脈々と受け継がれているものを感じます。
このあたりが「押井作品の原点」と言われる所以なんでしょう。
「偽物のあたる(実は夢邪鬼)」や「獏を覚醒させるラッパ」は思い付きらしいので、それより手前の場面での伏線はなしとのこと。
獏が覚醒し、夢の世界を破壊していく場面で、床面にあらわれる方眼は、「模型(プラモデルでつくられた町)の土台」のイメージとのこと。
また、本来は、獏の覚醒後のシーンがかなり長かったけれど、バランスを考えてカットされたとのこと(本当は、延々と長かった)。
さて、まとまりなく書き散らしましたが、そろそろ話をまとめにかかりましょう。
本作は、あらゆる意味において「自己言及的」です。
すでに述べた「ループ構造」への作中での言及は、とても分かりやすいところですが、実際にはそれだけには留まりません。
そもそも、「文化祭前日」のゴチャゴチャした感じは、「アニメ制作の現場」に対応するわけで、つまり、この作品には、自己言及的な無数の比喩が散りばめられているということです。
その上で考えれば、本作でポイントとなる「〈現実の世界〉と〈夢の世界〉の対比構造」は、「〈原作漫画〉と〈アニメーション〉の対比構造」に対応することも明白です。
そう考えると、本作品の作中や、のちの押井作品で繰り返し言及されることになる「現実と夢を区別することはできるだろうか?(さめなければ分からないのではないか)」という問いの裏の意味も見えてきます。
つまり、この問いはそのまま「〈原作(漫画)〉と〈アニメーション〉で描かれるそれぞれの世界の持つ価値を分け隔てるものなどあるのか?」ということになります。
原作の世界観と、それを二次創作的に描いた作品における世界観に、上下関係があるのだろうか?
実際のところ、そういうことにつながってくるのでしょう。
そして、これが、本作における、原作者と押井守の衝突の根本的な理由と考えられます。
「原作をリスペクトするのが当然」とする原作者と、「両者は区別不可能であり、それゆえに一方がより優れているとはみなせない」とする押井の対立なのでしょう。
このあたりは、夢の世界を破壊しまくることになる「獏」に描かれた「マルC」(著作権マーク。実際に破壊するときには、マークが消える)が、驚くほど直接的に表現しています。
恐らく、押井守も、原作をそこまで軽視しているわけではないとは思いますが、それでも彼自身が脳味噌につくり上げている論理の方が上位の存在と位置づけられていると感じることは多々あります。
これが所謂「押井ワールド」であり、コアなファンを生む源泉となっています。
ただ、この「押井ワールド」の理屈で行くと、高橋留美子の「うる星やつら」のさばき方が難しい。
平たく言えば、納得しがたい。
なぜこのキャラクターがこう行動するのかというところで、受け入れがたいところがどうしても残ってしまう。
テレビシリーズを制作していく中で、そういったものが蓄積していったのでしょう。
だから、最後と決めていた本作で、それらをすべて発散し、「押井ワールド」と「うる星やつら」を無理やり両立させる最終手段を行使しました。
それが「夢オチ」という名の「メタ構造」です(「夢」は「夢」であると気付かれた瞬間に相対化され、メタ化する)。
押井守は、そもそも「うる星やつら」が「夢」だと結論付けた。
そうでなければ、この作品の世界観を受け入れられない。
テレビアニメシリーズを通し、一定期間関わってきた押井守として、「うる星やつら」をどうにか受け入れよう、理解しようとした結果、限りなく破綻に近い矛盾が表面化。
それでもなお矛盾を「うる星やつら」という作品内に押とどめようとした結果、作品はかなり無茶な許容力を求められることとなり、押井守の中で奇形的な肥大化をはじめた。
そして、その末に、当作品「ビューティフル・ドリーマー」に至った。
「うる星やつら」という作品そのものに、「〈うる星やつら〉は夢である」と言及させるという「メタ構造」。
象徴的なのがラスト、教室で目覚めたラムとあたるの会話。
「ダーリン・・・ダーリン、うち、夢みたっちゃ。ダーリンがいて、天ちゃんがいて、お母様やお父様やメガネさんたちがいて・・・」
「ラム、それは夢だよ。それは夢だ・・・」
「ダーリンがいて、天ちゃんがいて、お母様やお父様やメガネさんたちがいる世界」とは、そのまんま「〈うる星やつら〉の世界」。
そして、それは「夢」だと言い切っている。
一応、この解釈を成り立たせるための「根拠」(伏線)もあります。
それが、原作漫画の「サザエさん方式」です。
“それを言っちゃあオシマイ”なのは百も承知ですが、この「サザエさん方式」は、「押井ワールド」と絶対的に相いれないものです。
高橋留美子としては不本意極まりないはずですが、押井守は、「うる星やつら」を「夢」だと(無駄に)強調することで、己の中の破綻を回避する手段をとった。
実際、「ビューティフル・ドリーマー」という作品は、「うる星やつら」の中の一作品を描くというより、「うる星やつら」の構造を“そのまんま丸ごと”再現しているようにも思えます。
すなわち、終わることなく続く、あたるやラムを中心とするドタバタ劇です。
もう少し突っ込んで言うなら、本作では、そのドタバタ劇を“外部”から眺める観測者からの視点として描き直す試みが見て取れます。
鏡写し的な描き方であり、自己言及的な描き方です。
さて、「サザエさん方式」とは、終わらせないためにとられるある種の裏ワザです。
でも、終わらないもの、繰り返し続けるものは、本来ありえない(少なくとも、押井守としてはリアリティーをもって受け入れられない)。
それでもあるというのなら、そこには何らかの理屈が存在し、「ループ」が成立しているとしか考えられない。
そして、そのことを気付かせるためには「さめる」という部分を描く必要があり、自動的にメタ化する。
これこそが、押井守が辿り着いた結論であり、高橋留美子が拒絶した結論ではないでしょうか。
これしかないというのは理解できるものの、原作者としてはキレて当然としか言いようがない。
単純に、あたるの言動(ラムに対する感情の描写)がどうとかいう問題ではなく、本質的には以上のような流れがあるような気がします。
これについては、押井守という一個人の主義主張の表明なので、賛否両論があるのは当然ですが、本作品が世に出てから30年経過した現在を見渡せば、その影響力が多大なものであることだけは明白です。
その意味では、一考の価値あるネタです。
「好きな人を好きでいるために自由でいたい」とあたるが語るように、「作品(創作)を好きでいるために自由でいたい」のが押井守。
作品が持っていると多くの人がみなす「オリジナルの世界観」からでさえも自由であることを望む押井守。
その明確な意思表明が「ビューティフル・ドリーマー」という作品の本質であり、「ビューティフル・ドリーマー」であり続ける決心をした押井守の独白にも等しい本作品誕生の舞台裏なのではないでしょうか。
そして、その当然の帰結として、現実にも一つの出来事が刻まれます。
すなわち、本作を最後に押井守は「フリー」となったわけです。
sho